第137戦 6月3日発売号●【予想】東京12チャンネルが単発生放送、IWA世界ヘビー級王座決定戦、ラッシャー木村vsビル・ロビンソン(74年国際プロレス後楽園ホール)【正解】全日本プロレス移籍が決まっていた両者が無気力試合、第4回MSGシリーズ公式戦、スタン・ハンセンvsタイガー・ジェット・シン(81年新日本プロレス愛知県体育館)【参考】2015年6月3日発売号は猪木、豊登の東京プロレス発足記者会見(66年新宿コミネビル)
【解説】74年の国際プロレスはエースであり、IWA世界ヘビー級王者だったストロング小林が離脱、TBSの放送打ち切り、凱旋帰国予定だった大剛鉄之介の交通事故など不運な事件、事故に年頭から襲われました。
TBSの「TWWAプロレス中継」は放送開始直後の68年当初は毎週水曜日午後7時から60分枠というゴールデンタイムでしたが、コロコロと曜日や放送時間が変更され、打ち切り直前は毎週土曜日午後2時から30分枠という時間帯で、当時は週休二日制はまだ導入されていない企業や学校が大半で、土曜日はいわゆる「半ドン」でしたから、家庭用ビデオデッキが普及してない時代だったこともあり、視聴率を稼ぐのが難しい時間帯でした。
とはいえ、全国ネットかつ「民法の雄」と言われ、ウルトラシリーズ、「8時だヨ!全員集合」、「ありがとう」などの高視聴率番組を多数抱えており民法第1局の日本テレビを凌駕する勢いにあったTBSの放送打ち切りによる放映権料収入が途絶えたのは大きなダメージでした。
当時は「テレビ局の放送なしにプロレス団体の運営はできない」と言われていた次代で、力道山、馬場、猪木がトップレスラーでありながら「社長」として経営者でいられたのはテレビ局から入る莫大な放映権料があったからでした。
S小林が退団し、凱旋帰国予定だった大剛がカナダ・カルガリーのフリーウェイでアイスバーンから交通事故を起こし、右足切断という重傷でレスラー生命を絶たれてしまった国際プロレスは、ノーテレビとなった「チャレンジ・シリーズ」前半戦に旗揚げ時に選手を貸してくれた見返りとして馬場が大熊元司、高千穂明久、サムソン・クツワダを連れて助っ人参戦して乗り切りました。
次の5月11日、新潟県五泉市民会館で開幕した「ダイナマイト・シリーズ」ではS小林の退団で空位となっていたIWA世界ヘビー級王座決定戦が行われることになりました。先ず5月26日、豊田市体育館でラッシャー木村とグレート草津による日本代表決定戦が行われ、試合に関係ないセーラー・ホワイトが乱入して草津を襲う事件はありましたがR木村が22分55秒、逆エビ固めで勝利。日本代表としてAWA代表、初代同王者であるロビンソンとの王座決定戦に駒を進めました。
王座決定戦は6月3日、後楽園ホールで行われ、この試合を東京12チャンネル(テレビ東京)が午後8時より生中継で放送。これは東京12チャンネルの運動部長をしていた白石剛達(たけみち)が吉原功社長の早稲田大学レスリング部の同期に当たり、白石氏の肝入りで実現したものでした。
1本目は11分43秒、R木村がロビンソンをロープにとばしてベアハッグに持ち上げると見せかけて前に落とす、今で言うスパインバスターのような技から得意の逆エビ固めを見せてギブアップ勝ちで先制。
2本目、逆エビにこだわるR木村に対し、ロビンソンは技をかけさせず、15分8秒にワンハンド・バックブリーカーから体固め。決勝の3本目は5分33秒、ロビンソンがダブルアーム・スープレックスからの体固めで連取し2−1でロビンソンが第7代王者に返り咲いています。
東京12チャンネルはこの後も6月25日、後楽園ホール、7月5日の鹿屋市体育館の2大会を単発放送した後、9月23日からレギュラー放送を開始することになります。
81年5月、全日本プロレスのトップヒール外国人であるアブドーラ・ザ・ブッチャーの新日本プロレス移籍に端を発した全日本プロレスと新日本プロレスの引き抜き抗争。
あれから今年21年で40年が経過しましたが、馬場と猪木が裏で結託しての出来レースのトレードであるとか、ガチンコの興行戦争だったとか諸説ありますがいずれにしても日本プロレス界が活性化したことは言うまでもありません。
5月8日、「第4回MSGシリーズ」開幕戦の川崎市体育館にブッチャーが白のジャケット、黒のズボン姿で登場、新日本プロレス参戦をアピールしました。このシリーズ、開幕前の5月2日、ニューヨーク州ロチェスターでキラー・カーンと対戦したアンドレ・ザ・ジャイアントが右足を骨折してしまい、来日キャンセル。
代打として急遽タイガー・ジェット・シンが呼ばれ5月12日、名取市民体育館から参加していますが、シンはそこで初めてブッチャー新日本移籍の話を聞かされ、ショックを受けて怒りをあらわにしています。
シンとスタン・ハンセンの公式戦は優勝決定戦の前日、6月3日、愛知県体育館で組まれ、僅か2分43秒に両者リングアウトの引き分けに終わっています。
この結果、リーグ戦は39点のハンセンが1位通過、2位に猪木とシンが38点で並び、翌6月4日、蔵前国技館での優勝決定戦は先ず猪木とシンが決勝進出者決定戦で対戦、18分34秒両者リングアウトとなり再試合、シンが猪木に急所攻撃を放って3分35秒、猪木が反則勝ちで優勝決定戦へ進出。
優勝決定戦ではスタミナ十分のハンセンに対しシンと20分以上闘っている猪木は短期決戦に出て、ハンセンを場外乱闘に引き込んで先にリングに上がり、猪木を追ってエプロンまで上がってきたハンセンにドロップキックを見舞い7分45秒にリングアウト勝ちで猪木が4連覇を果たしています。
奇しくも宿命のライバル2人を一夜にして連破した猪木が優勝しましたが、シンはこのシリーズの後、7月3日、熊谷市民体育館での全日本プロレス「サマー・アクション・シリーズ」開幕戦に乱入、翌4日、後楽園ホールから試合に参戦。ハンセンは年末まで新日本プロレスに参戦しましたが12月13日、蔵前国技館での全日本「世界最強タッグ決定リーグ戦」に乱入、全日本プロレスへ移籍しています。
が、ハンセンとシンの全日本移籍交渉はいずれも第4回MSGシリーズの終了後のオフ期間に馬場夫妻と日本テレビの原章プロデューサーがシンの自宅のあるカナダ・トロントとハンセンの自宅のあるテキサス州ダラスに出向いて行われたということが後々判ってきています。
馬場からの正式な条件呈示は交渉時に出されたにせよ、全日本からのコンタクトはハンセンとシンが日本に来ていた第4回MSGシリーズ中に行われていたことはほぼ間違いはないと思われ、流さんの論調では既に馬場から声をかけられ、全日本に行くハラを決めていたハンセンとシンが公式戦で無気力試合を行った、という感じですが、
前80年頃から組まれるようになったシンとダスティ・ローデス、アンドレ・ザ・ジャイアントとのシングルマッチやこのシリーズ行われたハルク・ホーガンとの公式戦(5月30日、徳島市立体育館、2分52秒、ホーガンの反則勝ち)も大体同じような短時間不透明決着試合なので、この試合に限った話ではなく、無気力試合というのは必ずしも当たってはいないと思います。
※対戦成績は137戦29勝108敗、勝率212。
ログインしてコメントを確認・投稿する