UWFは第1次(84年4月〜85年9月)、新生(88年5月〜90年12月)いずれも横浜文化体育館での興行開催はありません。第1次では満員にするのは難しく、新生では大会場での開催にこだわった為、横浜と言えば横浜アリーナでの興行を最優先させていたからでしょう。
実際にU系団体が横浜文体を使うのは91年1月の選手達によるミーティングで前田日明が「解散だ!」と宣言し、3派に分裂してからの話になります。
U系3派の中で最初に旗揚げ興行を行ったのはメガネスーパーの支援を受けて3月4日に後楽園ホールで開催したプロフェッショナル・レスリング藤原組。(当初は新UWF藤原組を団体名としていたがプロフェッショナル・レスリング藤原組に変更)。カール・ゴッチを顧問にしたことで第1次U系の本流というイメージをファンに浸透させました。
UWFでレフェリー、選手としても活躍していたゴッチの娘婿、ミスター空中が外国人選手のブッカーをしていたので外国人選手の招聘ルートにも困ることはありませんでした。
藤原以外の参加選手は船木誠勝、鈴木みのる、新生Uでデビューした冨宅祐輔(飛駈)、藤原組でデビューした高橋和生(義生)、柳澤龍志、石川豊彦(雄規)らがいました。旗揚げ直後のSWS91年3月30日、東京ドーム、4月1日、神戸ワールド記念ホールには船木が参戦、新日本プロレス時代の先輩にあたる佐野直喜と2連戦を行い2連勝しています。
藤原組の横浜文体初進出は92年1月15日、「獅子王達の咆哮PART1」(観衆4,120人満員発表)。藤原組のエースは船木。メインイベントでは船木がウェイン・シャムロックと対戦し30分時間切れ引き分け。両者の対戦では、やはり30分は短かったか?
船木は「もう少し時間があれば勝てた」と再戦を要望し2月24日、後楽園ホールでは60分1本勝負で対戦、40分でシャムロックから三角絞めでギブアップを奪いました。
藤原はセミファイナルでバート・ベイルを10分36秒、ヒールホールドで破り、地元横浜凱旋マッチとなった鈴木は冨宅を相手に4分40秒、逆エビ固めでギブアップ勝ち。SWSから参戦の佐野はジェリー・フリン(89年にFMWに来日したジェリー・ブレネマン)を逆片エビ固めで降しました。
92年4月19日には旗揚げ1年で早くも東京体育館でビッグマッチを開催、前日の18日にはSWSが同所で天龍vsリック・フレアー戦をメインとした大会を行っており、会場は両日ともメガネスーパーが押さえていました。船木がプロボクシング元WBC世界ライト級王者ロベルト・デュランと異種格闘技戦を行い完勝していますが、腹の出た練習不足の身体でTシャツを着用して試合をしたデュランに非難が集まりました。
SWSは資金が潤沢にあったことが災いしたか、内部分裂を起こし、92年6月19日の長崎国際体育館で解散。後継団体として天龍が代表となったWARと、ケンドー・ナガサキが代表となったNOWが旗揚げ。最初の1年はメガネスーパーがスポンサードしていくことを約束。
SWS用に押さえてあった10月4日、東京ドーム大会は田中八郎社長の意向で藤原組が開催することになりました。田中社長は天龍と藤原の一騎討ちを熱望しましたが、新日本プロレスと提携して長州力との対戦が予定されている天龍に藤原が勝つ訳にはいかず、藤原は天龍戦を拒否。怒った田中社長は藤原組への支援をドーム大会を最後に打ち切ってしまいました。
東京ドーム大会は40,800人発表と満員には程遠かったもののまずまずの動員となり、メインイベントは船木とキックボクシングのWKA世界王者モーリス・スミスと引き分け、鈴木はソ連のゴビリシビリ・ダヴィドを破り、藤原はツハタゼ・ザオールを降しました。
シャムロックは前田、藤原、山田恵一らと新日本プロレスのリングで異種格闘技戦を行ったドン・中矢・ニールセンを僅か1R45秒、アームロックでギブアップさせてファンの溜飲を下げました。
また、より先鋭的な格闘技路線を推し進めて行きたい船木、鈴木、高橋らと、従来のプロレスとの併用でないと客が入らないとする藤原と意見が対立。また、メガネスーパーからの支援が打ち切られ、代表として資金繰りに奔走、道場を不在にしがちになった藤原に対し、船木、鈴木らが反発。
翌93年1月、船木、鈴木、冨宅、高橋、柳澤、新人の稲垣克臣らは藤原組を離脱。新団体旗揚げに動きました。
93年1月16日、後楽園ホール大会は所属日本人選手が藤原と石川雄規の2人だけになってしまい、藤原は第1試合でシャムロックを膝十字固めで破った後、石川とメインイベントで対戦、試合は直ぐに藤原が関節を決めて石川をタップさせましたが、負けた石川は何度も藤原に勝負を挑み、都度決められてはタップ、公開スパーリングのようになりましたが、観客席からは「石川、頑張れ!」と石川を後押し。
この大会で藤原組はもう最後だろうとほとんどの観客が思いましたが、藤原は新日本プロレスとの交流に活路を見出し、石川を連れて新日本に参戦した他、石沢常光(ケンドー・カシン)を藤原組の興行に呼ぶなどして団体は存続しました。
船木、鈴木らの新団体は「パンクラス」を名乗り93年9月21日、東京ベイNKホールで旗揚げ。シャムロックも船木派に合流。体脂肪の少ない肉体にハイブリッド・レスリングと言われる「秒殺」を団体のカラーにしていきました。
藤原組は石川以外にも池田大輔、臼田勝美、田中みのる(稔)、船木勝一、アレクサンダー大塚、米山サトシ(モハメドヨネ)など、新人も伸びて来て、FMW、みちのくプロレスとも交流して再び団体として力を付け始めましたが…。
95年11月19日、藤原組最後の横浜文体大会「横浜大決戦 藤原事変」(観衆5,986人超満員発表)。メインイベントは船木勝一がザ・グレート・サスケの英連邦ジュニア・ヘビー級王座に挑戦、18分10秒、サスケがサンダー・ファイヤーパワーボムからのエビ固めで王座防衛。
藤原はセミファイナルで士道館空手の村上竜司と異種格闘技戦で対戦して2R50秒、村上の上に乗ってのマウントパンチを出して反則負け。
池田&マーク・アシュフォード(マーク・スターのリングネームでFMWに来日)組vsFMWのザ・グラジエーター&大矢剛功組は23分28秒、グラジエーターがアシュフォードをダイビング・ボディプレスから体固め。
石川はみちのくプロレスのTAKAみちのくを12分34秒、腕ひしぎ逆十字で破っています。
メインイベント終了後、藤原を除く石川以下所属選手がリングに上がり、藤原組のジャージを脱ぎ捨てました。石川が代表となり翌96年4月13日には小田原市川東タウンセンター・マロニエホールで「格闘探偵団バトラーツ」を旗揚げ。藤原は再び孤立。藤原組は96年に2度の興行を行った後、藤原の個人事務所になっています。
藤原組が横浜文体で興行を行ったのは僅か2回でしたが、団体としての事実上の終焉となった大会が横浜文体だったというのも何かの因縁だと思います。
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