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2020年09月11日23:57

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ありがとう!横浜文化体育館(3)

国際プロレスの15年の歴史の中で負のエポックメイキングな出来事と言えば、74年2月に起きた団体のエースでIWA世界ヘビー級の現役王者だったストロング小林の退団。小林は猪木に挑戦して敗れ「国際は新日本より弱い」というイメージを世間に植え付けてしまいました。

小林の退団は新日本プロレスの引き抜き工作というのが長年の定説になっていましたが、ここ10年位の間ににその前段として、マッチメーカーであり取締役営業部長のグレート草津との確執があったことが多くのメディアで書かれるようになりました。

それを象徴するような試合が横浜文化体育館で行われています。73年11月28日、草津と初来日の「狼酋長」ワフー・マクダニエルが金網&インディアン・ストラップデスマッチで対戦。インディアン・ストラップマッチはワフーの得意とする試合方法で、対戦する選手同士が片方の手首にストラップ(革紐)を巻き、相手を倒してリング上のコーナー4隅をタッチした方が勝ちというルールです。

草津はこの試合で大流血しながらもワフーを引きずってコーナーの4隅をタッチ、18分13秒にKO勝ちを収めています。金網という国際プロレスの得意なルールでワフーが金網に慣れていなかった、という言い訳は成り立ちますが…。

ワフーはこの「ビッグ・ウインター・シリーズ」に初来日、11月9日、和歌山・那智勝浦観光会館で小林を2−1破りIWA世界ヘビー級王座を獲得。日本プロレス時代の馬場のインターナショナル王座21回連続防衛の記録を抜いて25回と日本記録になっていた記録がストップ。11月14日、長野市民体育館でのリターンマッチは1−1から両者リングアウトとなりワフーが初防衛。

シリーズ最終戦の11月30日、後楽園ホールで小林がワフーを2−1で破り辛うじてベルトを奪回しましたが、反則勝ちが1本入っておりワフーから2フォールは奪えずに終わっています。

つまり、横浜文体大会の時点でワフーは国際の看板タイトルであるIWA世界ヘビー級の現役王者。現役王者が団体ナンバー3(この時点での草津とラッシャー木村のランクも微妙だが、このシリーズの前に行われた第5回IWAワールド・シリーズでR木村が小林を押えて初優勝しており、R木村をナンバー2と見るのが妥当)にKO負けしてしまっては、2日後の小林のベルト奪回も霞んでしまい、これは草津の小林に対する嫌味以外の何者でもないでしょう。

国際プロレスは小林の退団、TBSの放送打ち切りで団体存亡の危機に晒されましたが、日本プロレスを離れ全日本プロレスを設立した馬場が旗揚げ当初、手薄だった日本人選手を貸し出してもらった恩義を返す為に74年3月の「チャレンジ・シリーズ」前半に所属選手を連れて友情参戦。また、9月から関東ローカルながら、東京12チャンネル(テレビ東京)のレギュラー放送が開始され、息を吹き返します。

IWA世界ヘビー級王座もビル・ロビンソン→スーパースター・ビリー・グラハム→マイティ井上→マッドドッグ・バション→R木村へと移動。

75年12月2日には横浜文体で、シリーズ序盤の11月3日、後楽園ホールでピエール・マーチン(フレンチ・マーチン、フレンチ・マーテル、マッドドッグ・マーチン)&マイク・マーテル組のザ・コンバット・フレンチブラザーズに奪われたIWA世界タッグ王座を草津&M井上組が金網デスマッチで奪回。

少しずつ経営が安定して来た77年2〜3月には3年半ぶりに「第6回IWAワールド・シリーズ」を開催、同時に「第1回IWAタッグ・トーナメント」も行われ、バション&ジプシー・ジョー組が凶悪タッグを結成して話題になりましたが、仲間割れ。3月25日に横浜文体で行われたタッグ・トーナメント優勝決定戦では、ビッグ・ジョン・クイン&クルト・フォン・ヘス組がアニマル浜口&寺西勇組を破り優勝。シリーズ開幕前に草津&M井上組が返上したIWA世界タッグ王座に就いています。

78年3月24日にはR木村は今年亡くなった狂乱の反逆児キラー・ブルックスの挑戦を受けてIWA世界ヘビー級王座の防衛戦を行いました。ブルックスは前77年11月に国際プロレスにエース格として初参戦。11月6日、後楽園ホールでのノンタイトル戦ではブルックスのギロチン・ドロップの前にフォール負け。 

11月24日、越谷市体育館でタイトルマッチで対戦、バックドロップからの体固めでフォール勝ちしていますが、ブルックスはカウント2で跳ね返したように見え、「カウントが早い」とレフェリーにクレームをつけ、「すぐにリマッチをやらせろ!」と3か月という短いスパンでの再来日。

横浜文体でのタイトルマッチは今度は61分3本勝負で組まれ、R木村がブルックスから2本奪って完勝し、14度目の防衛に成功しています。

79年9月29日にはR木村が因縁の相手、上田馬之助とIWA世界ヘビー級王座防衛戦を行っています。遡ること3年前、76年6月11日、古河市立体育館で上田はカウンターの凶器攻撃からR木村を体固めで破り、同王座を獲得。

7月28日、銚子市体育館で行われた金網デスマッチによるリターンマッチでは、レフェリーが暴行され、サブレフェリーがリングに入ろうと金網のドアを開けたところ、両者が金網の外に出て乱闘を始めるという展開となり、没収試合になりました。上田の王座も没収され、7月31日、越谷市体育館で金網による王座決定戦が行われる予定でしたが、新日本プロレスから引き抜きの声がかかっていた上田は負傷を理由に棄権。代打にスーパー・アサシン(ロジャー・スミス)を指名。

R木村はSアサシンを破って王座返り咲きを果たしましたが、上田に「勝ち逃げ」されたまま新日本プロレスに行かれてしまいました。

国際プロレスと新日本プロレスが業務提携路線を敷いた79年、上田がマサ齋藤を伴い3年ぶりに新日本ルートで国際に再登場。4月20日、富山市体育館で行われたR木村と上田のIWA世界ヘビー級王座戦は1本目両者リングアウト、2本目R木村の反則勝ちでR木村が防衛を果たしましたが、フォール、ギブアップによる1本は取れず。

M齋藤が新日本プロレスに戻った後も上田はこの年一杯、国際プロレスに継続参戦。横浜文体で両者による通算4度目のIWA世界ヘビー級王座戦が行われましたが(61分1本勝負)、6分16秒、上田が特別レフェリーのルー・テーズに暴行を加えてのR木村の反則勝ち。上田は80年6月には新日本プロレスに復帰してしまい、2度と両者は交わらず。結局R木村は上田から1フォール、ギブアップも取れないまま終わりました。

国際プロレス最後の横浜文体大会は81年2月27日、「スーパー・ファイト・シリーズ」開幕戦、(ノーテレビ、観衆3,000人発表)メインイベントはM井上&寺西組がルーク・グラハム&エル・コバルデ組を破り、ルー・テーズ杯争奪後期予選リーグ戦ではR木村が浜口を降しています。

このシリーズ一杯で東京12チャンネルのレギュラー放送を打ち切られた国際プロレスは業績悪化の一途を辿り、同年8月9日、北海道・羅臼町民グラウンド大会を最後に興行活動を休止しました。
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