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2020年01月27日23:16

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週プロ流智美あの日あの時予想2019年総括(18)

第84戦 5月8日発売号●【予想】たった一度の同門対決、第2回ワールド・リーグ公式戦、猪木vs山本小鉄。(75年新日本プロレス出雲市体育館)【正解】アブドーラ・ザ・ブッチャー、馬場に反則勝ちで第4回チャンピオン・カーニバル初優勝。(76年全日本プロレス札幌中島スポーツセンター)【参考】2013年5月8日発売号はブッチャー、新日本プロレスのリングに登場。(81年新日本プロレス川崎市体育館)

【解説】71年12月13日、猪木が会社乗っ取りを企てたとして日本プロレスを除名・追放処分となった時、山本小鉄は真っ先に猪木に追随、日本プロレスを離脱して新日本プロレスの旗揚げメンバーとなりました。

小鉄のタニマチであった中村パンの中村社長は新日本プロレスに運転資金を援助。野毛の新日本プロレスの道場の精神を築きあげたのは小鉄と言われていますし、ライオンマークのロゴも原案を出したのは小鉄でした。

72年3月6日、大田区体育館での旗揚げ戦に豊登が現れ「テレビ放送がつくまで」という約束で限定復帰していましたのでリング上ではナンバー3でしたが、現役兼マッチメーカー、現場責任者、反社会的勢力対応と活躍していました。

ノーテレビの新日本プロレスは、地方興行で不入りが続き、運転資金も底をついてきつつありました。73年4月、坂口征二が小沢正志(キラー・カーン)、木村聖裔(たかし、健吾、健悟)、大城勤(大五郎)、田中米太郎レフェリーを連れて新日本プロレスに入団。これまで日本プロレスを放送して来たNETは4月6日、宇都宮スポーツセンター大会から新日本プロレスの放送に鞍替え。NETから毎週放映権料が入ることになり新日本プロレスは息を吹き返しました。

坂口は入団時から取締役副社長であり、新間寿専務取締役営業本部長より「リング上では猪木さんを立ててもらうが、その他の待遇面では猪木さんと同じにする」と言われており、旗揚げメンバーである小鉄は面白くなく、坂口と小鉄の間に軋轢が生じていました。

また、小鉄が若手への小遣いや飲食代等を会社の経費で落としていたことや愛車キャデラックも会社名義で購入して乗っていたことなどが猪木の知るところとなり次第に猪木も小鉄を遠ざけるようになりました。

73年10月の「闘魂シリーズ第2弾」には永源遙、次の74年1月の「新春黄金シリーズ」には星野勘太郎と日本プロレス崩壊時に海外におり、馬場の全日本プロレスと契約をしていなかった2選手が新日本プロレスヘ入団を果たし、星野の新日本参戦で小鉄とのヤマハ・ブラザーズが復活。ファンを喜ばせています。

日本人選手層が厚くなった新日本プロレスは4月に第1回ワールド・リーグ戦を開催。こちらは先ず予選リーグ戦は日本人vs外国人の総当たりリーグ戦という従来の日本プロレスのワールド・リーグ戦のやり方を踏襲しましたが、決勝リーグ戦は日本人、外国人上位4人ずつによる全選手総当たりリーグ戦を敢行。残念ながら小鉄が予選落ちし、猪木、坂口、フリー参戦のマサ齋藤、星野が決勝リーグヘ進出しこのメンバーとの対戦は実現せず。

翌75年の第2回ワールド・リーグ戦は参加全選手による総当たりリーグ戦が実現しました。旗揚げメンバー同士による猪木と小鉄の公式戦は5月8日、出雲市体育館で実現。11分1秒、猪木が弓矢固めで小鉄からギブアップを奪い猪木が順当勝ち。

小鉄はこの年のワールド・リーグ戦では星野とのヤマハ対決は敗れたものの、猪木、坂口、ストロング小林、M齋藤を総ナメにしたキラー・カール・クラップに回転エビ固めで土を付け、69年の日本プロレス第11回ワールド・リーグ戦でゴリラ・モンスーンを破った「大物食い」を再現して8勝7敗と勝ち越し。

翌76年から猪木、坂口による「小鉄外し」は本格化し第3回ワールド・リーグ戦では格下である永源、木戸修、ケン・マンテルに負け、クラップとの一戦で肩を負傷して棄権。以後は試合数も少なくなりました。 

79年1月21日、国際プロレスの後楽園ホールで星野と組んでグレート草津&アニマル浜口組からIWA世界タッグ王座を奪ったのがレスラー生活最後の晴れ舞台ではなかったかと思います。

同年3月からテレビ解説者となり80年4月4日、川崎市体育館で星野とのヤマハブラザーズで国際プロレスの独立愚連隊、鶴見五郎&大位山勝三組と引退試合を行い、12分26秒、ダイビング・ボディプレスからの体固めで鶴見を破りましたが、まだ38歳であり「強制引退」させられた感はアリアリでした。

そういう面で猪木と小鉄のシングルマッチは大変貴重だったといえます。

前回も書きましたので重複する部分は割愛しますが初の総当たりリーグ戦導入となった全日本プロレスの76年第4回チャンピオン・カーニバルは終盤までもつれた優勝争いを見せました。馬場、鶴田、ザ・デストロイヤー、大木金太郎、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・バラクーダが横一線で並んでいましたが、

先ずは終盤に来てデストロイヤーが5月6日、帯広市総合体育館での大木戦で時間切れ引き分け寸前の29分35秒、リングアウト負け。さらに翌5月7日の旭川市体育館でのグレート小鹿との最終公式戦で18分10秒、両者リングアウトに持ち込まれ、2日連続の無得点試合となり16点で公式戦終了となり脱落。

公式戦最終日の5月8日、札幌中島スポーツセンター(テレビ生中継、観衆6,100人発表)を前に公式戦1試合を残し1位が伏兵のザ・バラクーダの17点。2位には馬場、鶴田、大木、ブッチャーの4人が同点の16点という展開になりました。

テレビ生中継前に行われたブッチャーvsバディ・ウォルフの公式戦は僅か2分13秒、体固めでウォルフを降して18点。続いて行われた鶴田と大木の初対決は30分時間切れ引き分け。共に17点となり優勝の目は断たれました。

最終公式戦、馬場vsバラクーダ、バラクーダが勝てば優勝。時間切れ引き分けならブッチャーと外国人同士による優勝決定戦。12分24秒、馬場がビッグマッチにしか出さない切り札ランニング・ネックブリーカードロップでバラクーダを体固めに仕留め、18点でブッチャーと並んで、同点による優勝決定戦ヘ。バラクーダは17点で3位と大活躍でした。

優勝決定戦は時間無制限1本勝負。馬場はアバランシュ・ホールド(フライング・ボディアタック)でブッチャーをフォールしましたが、レフェリーのジョー樋口が巻き込まれてダウンしカウント入らず。怒った馬場は暴走してブッチャーを攻撃し、静止に入ったサブレフェリーのジェリー・マードックも突き飛ばし9分53秒、反則負けを取られてブッチャーの初優勝。  

59年の日本プロレス「第1回ワールド・リーグ戦」以来、国際プロレスのIWAワールド・シリーズは別として、力道山の日本プロレスの流れを組む団体で外国人選手、しかもヒールレスラーが優勝したのはこれが初のことでした。

ニュース性、歴史的意義はこちらの方が強かったですが、これはどこかで見た記憶がありました。調べると2015年5月第1週は6日が水曜日でしたが、GWの関係から発売が8日となり、この時に一度、第4回チャンピオン・カーニバル優勝決定戦を採り上げていたのと、前週が同じシリーズの日大講堂だった為、2週連続かつ過去に採り上げた出来事を持って来るとは思えませんでした。前週のは完全に「ツリ」でした。

※対戦成績は84戦17勝67敗。
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