第83戦 5月1日発売号●【予想】ショーグン・KYワカマツ、一世一代の大勝負、両国のメインで猪木と対戦、猪木&上田馬之助組vsアンドレ・ザ・ジャイアント&ショーグン・KYワカマツ。(86年新日本プロレス両国国技館)【正解】レイスとブッチャーが路上にてストリートファイト、第4回チャンピオン・カーニバル公式戦、大木金太郎vsアブドーラ・ザ・ブッチャー。(76年全日本プロレス日大講堂)【参考】2013年5月1日発売号は第8回チャンピオン・カーニバル優勝決定戦、鶴田vsディック・スレーター(80年全日本プロレス福岡九電記念体育館)
【正解】若松市政は42年1月1日、北海道芦別町出身、電気技師、港湾夫などをして働いていたところ、従来のプロレス好きが高じて30歳で国際プロレスに入門を直訴。しかし、格闘技経験もなく、身体も小さい、年齢も当時の30歳ではかなり遅かったですが、吉原功社長はその生真面目な性格を買って資材部の社員として入社を許可しました。
運転手、リングスタッフ、レフェリーと一人何役もこなし、デビューを目指しトレーニングに励む若松を見て吉原社長は73年9月29日、高山市体育館での大位山勝三戦でデビューさせました。31歳のデビュー戦は5分30秒、体固めで敗れております。
デビューしたとは言え、試合は毎回は組んでもらえず、ランクは最下位のまま。81年8月に国際プロレスが崩壊した後は10月8日、新日本プロレスの蔵前国技館大会(猪木vsラッシャー木村他対抗戦)のレフェリーを務めた後、前80年にカナダ・カルガリー修行に行く予定で地元芦別で壮行試合をやってもらい、餞別までもらっている以上、会社がなくなったからと言ってカルガリーに行かない訳にはいかないと自費で83年にカルガリーヘ渡航しました。
若松は「ショーグン・KYワカマツ」のリングネームでヒールとして試合をするようになりました。しかし、格闘技経験のない若松の試合はあまりにもしょっぱく観客に受けず、プロモーターのスチュ・ハートは「お前はマネージャーをやれ」とマネージャー転向を指示。バッドニュース・アレン、ホー・チー・ロー(鶴見五郎)、マイク・ショー、ヒロ斉藤らヒール軍のマネージャーとして活躍。プレーイング・マネージャーとして試合が組まれることも多くなって来ました。
そんなワカマツに一大転機が訪れたのが84年の8月、プロレスを題材とした人気アニメ「キン肉マン」をモチーフとしたマスクマンを売り出すことになりましたが最終的にキン肉マンを放送していた日本テレビと全日本プロレスとの関係から話は流れ、キン肉マンの中身になるレスラーを「謎のマスクマン」として登場させるにあたり、ワカマツをマネージャーとして付ける案が決まりました。
謎のマスクマンはストロング・マシンを名乗り、増殖をしてマシン軍団としてワールドプロレスリングの画面にワカマツは毎週登場。10月以降は長州力以下ジャパンプロレス勢の選手大量離脱によりマシン軍団の扱いが良くなりました。
85年1月にはマシン3号&4号も登場しましたが4月18日、両国国技館での藤波vsマシン1号のシングルマッチでワカマツのパウダー攻撃誤爆により仲間割れ。
マシン1号はマシン軍団と訣別、「85IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ」5月13日の大分県立総合体育館大会よりスーパー・ストロング・マシンに改名。このシリーズからワカマツはアンドレ・ザ・ジャイアントのマネージャーになりました。
次の「バーニングスピリット・イン・サマー」では裏切り者SSマシンとマシン2号&3号の抗争が組まれましたが、このマッチメークに嫌気がさしたかSSマシンは8月5日、大阪城ホールでのジャパンプロレスの会場に姿を現して長州に対戦表明。H斉藤、高野俊二と共に新日本プロレスを離脱してしまいました。
8月23日、東村山市民スポーツセンターで開幕の「チャレンジ・スピリット85」ではアンドレ、マスクド・スーパースターにマシンマスクを被せ、それぞれジャイアント・マシン、スーパー・マシンに変身させて急場を凌ぎました。86年1月の「ニューイヤー・ダッシュ86」ではワカマツは初来日のマッドマックス1&2号のマネージャーを務めましたが、彼らはキャリア的にもグリーンボーイの域を出ませんでした。
86年4月の「ビッグ・ファイター・シリーズ」にアンドレが来日。最終戦の5月1日、両国国技館では猪木の出ない新日本プロレスvsUWF5対5勝ち抜き戦が行われることとなり、カードからあぶれた猪木は上田馬之助と組んでアンドレ&ワカマツ組と対戦。
強かったレスラーが齢を取ってマネージャーに転向した訳ではなく、国際プロレスでも最下位ランクだった男がタッグながらも両国国技館のメインイベントで猪木と対戦するというプロレスラーとしては一世一代の晴れ舞台に立ちました。実況の古舘伊知郎アナはワカマツを「シンデレラ中年」と称しています。
試合は8分37秒、猪木がワカマツを延髄斬りから体固めで降していますが、ワカマツはアンドレの陰に隠れるようなことはせずに「素の若松市政」として猪木と対戦してしまったように思います。
この2日前の4月29日、津市体育館でアンドレは前田日明とシングルマッチを行い、不穏試合とも言える試合をしており、前田の膝蹴りを正面から何発も食らったダメージで明らかに動きが悪く、アンドレに頼った試合作りは出来なかったのかも知れません。
全日本プロレスの春の祭典「第4回チャンピオン・カーニバル」はこの年初の参加全選手による総当たりリーグ戦形式を採用。前3回はトーナメントとタイトルマッチラッシュの併用でしたが、新日本プロレスの「ワールド・リーグ戦」がいち早く総当たりリーグ戦を採用し、全日本プロレスよりかなり劣る外国人メンバーながら興行成績では全日本の上をいっていたことと、
前75年12月に開催した「オープン選手権」で馬場vs鶴田、鶴田vsR木村、馬場vsR木村等日本人同士によるカードを組み、好評だったところから総当たりリーグ戦導入に踏み切ったものと思われます。
加えてシリーズ終盤戦の4月30日、静岡・駿府会館からはハーリー・レイスが特別参加。レイスはオープン選手権、75年12月10日、岐阜市民センターでアブドーラ・ザ・ブッチャーと公式戦で対戦、15分33秒、両者リングアウトとなりましたが、ブッチャーの攻撃で腕を脱臼させられ、翌11日の日本武道館で行われた「力道山13回忌追善記念興行」を欠場。
腕を三角巾で吊った姿で観客に欠場の挨拶をしているところをブッチャーが襲撃、両者の間には遺恨が発生しており、公式戦とは別に優勝決定戦終了後の追撃戦となるシリーズ最終戦の5月13日、川崎市体育館でのシングルマッチが決定していました。
シリーズ天王山5月1日、日大講堂(テレビ生中継、観衆7,000人発表)大会では注目の2大公式戦が組まれました。セミ前に組まれたのは前75年12月15日、仙台・宮城県スポーツセンター以来の対戦となる馬場vs鶴田の師弟対決。鶴田があわや時間切れ引き分けか!?というところまで粘りましたが26分15秒、馬場がバックドロップからの片エビ固めで勝利。
続いてのセミファイナルは大木金太郎vsブッチャーの公式戦。大木とブッチャーは日本プロレス時代は第13回ワールド・リーグ戦等で何回か対戦していますが、前75年12月11日、日本武道館での力道山13回忌追善興行で久しぶりにシングルマッチを行い、5分45秒、両者リングアウトの引き分け。この日のブッチャーは欠場の挨拶に上がったレイスを襲撃した他、リングアナの力道山の長男、百田義浩を襲って額から流血させるという暴挙に出ていました。
「力道山先生の追善興行でブッチャーに勝つことが出来なかった。義浩君も守る事が出来なかった」と大木はオープン選手権を途中棄権して韓国へ帰ってしまいました。
それ以来の対決となりましたが、試合はまたも場外戦へ。6分12秒、両者リングアウトとなりましたが、そこへ最終試合の6人タッグマッチ、ザ・デストロイヤー&グレート小鹿&大熊元司組vsレイス&ザ・バラクーダ&ザ・ビースト組に出場するレイスが乱入。ブッチャーを追って乱闘となり、場外はおろか、会場の外に出てしまい乱闘、まさにストリートファイト、「元祖・路上プロレス」となってしまいました。両者は日大講堂の前を走る京葉道路の近くまで来ましたが、今の時代なら会場側から全日本プロレスは始末書を取られたことでしょう。
※対戦成績は83戦17勝66敗。
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