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2019年09月30日23:52

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猪木とビンス(542)最終章

さらに吉原社長は所属選手に対し「もっと個性を出してもらいたい。それに選手個々が研究不足である。プロレス自体が変わって来ているのに創造性がたりない。他人のものを盗むのも大切だが、自分のものを作り出すというのも大切なのだ。

例えば馬場にしろ猪木にしろ大木にしろ"ここぞ"という時は場内をワッと沸かせる貫禄を持っている。ウチの選手はそのへんが欠けている。玄人と呼ばれる人は"国際の試合が一番中味がある"と言ってくれるが、それだけで満足してはいけない。いかに場内をワッと一つに湧き上がらせるか。勉強、努力以外にないでしょう」  

しかし、田中元チーフ・ディレクターは「吉原さんは要するに木村でも草津でも井上でもなく、リング上の本当のトップは外国人でなければ気が済まないんですよ。これは間違いない。日本人レスラーで自分より目立つ人間が出ることを快く思ってなかった訳です。目立ちたがりとは違うと思うんだけれども、やっぱり馬場、猪木と同じく国際プロレスで最も目立つべき日本人は自分なんだという姿勢は最後まで変えなかった人でしたよ」と述懐しています。

これはスーパースターである馬場、猪木も全く同じで馬場は81年に日本テレビから松根光雄が役員として出向して来て、82年元日付で全日本プロレスの社長に就任した時に馬場に事実上の引退勧告をした際も馬場は反発、トップの座ににいつまでも執着していました。85年10月に6年半ぶりに日本テレビの「全日本プロレス中継」がゴールデンタイムに復帰した時、馬場は第一線から退きましたが、これはゴールデン復帰の「交換条件」だった可能性が高いです。

猪木もまた然りで藤波、長州ら後進に道を譲らず、89年6月の参院選出馬が上手く当然の運びとなりセミリタイアとなりましたがやはり団体の長、オーナーとしてはいつまでもリング上のトップの座に拘るのはレスラーとしての性(サガ)でしょう。

しかし吉原は現役レスラーではありません。ビンス・マクマホンのようなリング介入が許される時代ではなく、自分では客を呼ぶことは出来ません。これは吉原が所属選手達に派手なパフォーマンスを禁じていたのではないでしょうか?

国際プロレスの選手がそう言った自己アピールがまるで駄目だったかと言えばそのようなことはなく、団体が崩壊した81年以降、バラバラになった選手達は生き残る為にラッシャー木村はマイクパフォーマンスの鬼となり、アニマル浜口は「気合だ〜」のおじさん、浜口京子の父親としてタレントでも活躍。

途中離脱組ながら剛竜馬は「ショアッ!」と「プロレスバカ一代」でブレイクしオリエンタル・プロレスを旗揚げ。高杉正彦はウルトラセブンに変身、後に入門する冬木弘道は理不尽大王となりました。

レスラーとしては最下位ランキングとなる若松市政は悪役マネージャー、ショーグン・KYワカマツとしてストロング・マシン軍団の「悪の司令塔」として毎週テレビのゴールデンタイムに露出しました。ある意味一番大化けしたのは若松でしょう。
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これら才能の持ち主が多数いた国際プロレスでしたが団体があった時にはないパフォーマンスでお客さんを楽しめさせた訳ですから吉原の采配ミスと言えそうです。

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