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2019年09月20日22:23

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猪木とビンス(532)最終章

国際プロレスvs全日本プロレス「全軍対抗戦」も残すところ後2戦。第5戦は77年11月30日、静岡・駿府会館(東京12チャンネル収録、観衆5,700人超満員発表)大会。

対抗戦の勝敗もさることながら、アジア・タッグ王座を巡る攻防が注目を集めました。

メインイベントはマイティ井上&アニマル浜口組に高千穂明久&サムソン・クツワダ組が挑戦したアジア・タッグ選手権試合。高千穂&クツワダ組の「オーストラリア遠征コンビ」は全日本プロレスでは大熊元司が75年2月にカナダ遠征から帰国、74年9月に先にテキサス遠征から帰国していたグレート小鹿とタッグを組み、全日本プロレスのリングで極道コンビを結成(小鹿&大熊組はアメリカではタッグを結成していたが日本プロレスでは本格的にタッグを結成していない)、極道コンビvsオーストラリア遠征コンビの試合は中堅どころの名物カードとなり、テレビ中継でもよく放送されていました。

76年10月21日、福島市体育館では、極道コンビが敗れてベルトを失ったジェリー&テッドのオーツ兄弟を破りアジア・タッグ王座を獲得。ザ・クルセーダーズ1&2号(ビリー・レッド・ライオン&ディウィ・ロバートソン、ロバートソンは後のミッシング・リンク)、小鹿&大熊組を相手に2度防衛した後、77年6月16日、後楽園ホールで小鹿&大熊組に敗れ王座から転落しています。

高千穂&クツワダ組は実績でも申し分ないチームでした。試合は高千穂と浜口が1本ずつ取り合った後M井上が得意のサマーソルトドロップ2連発でクツワダを破り2−1でM井上&浜口組が初防衛に成功しています。

この日の他の対抗戦は鶴田&天龍組vsグレート草津&寺西勇組は両チームリングアウト。この無得点試合は全日本プロレス側は取りこぼしでしょう。

大熊は米村勉(天心)に勝ち、伊藤正男はデビル・ムラサキに体力の差を見せつけてフォール勝ち。剛竜馬は淵(渕)正信を得意のサイド・スープレックスからの体固めで降し、スネーク奄美は大仁田厚をダイビング・ボディアタックでフォール。

対抗戦の成績は国際プロレスが3勝2敗1両リンで6点追加して32点、全日本プロレスは2勝3敗1両リンの4点追加の28点と再び4点差で国際プロレスがリードし最終戦を迎えることになります。

対抗戦最終戦は12月1日、和歌山県立体育館(観衆3,600人発表)。メインイベントはM井上&浜口組にアジア・タッグ王座に前王者小鹿&大熊組が挑戦。浜口と大熊が1本ずつ取り合った後、1−1から両チームリングアウトの引き分けとなり、M井上&浜口組が2度目の防衛に成功。

全日本プロレスは年内にリターンマッチのチャンスはなく、馬場&鶴田組が大木金太郎&キム・ドク組に奪われたインターナショナル・タッグ王座と合わせてアジア・タッグ王座も流失したまま越年が決定となりました。

鶴田&天龍組vs草津&剛組は鶴田が剛を体固めに決めて鶴田&天龍組。クツワダは鶴見五郎を破り、ロッキー羽田と大位山は両者リングアウト。伊藤正男はスネーク奄美に勝ちましたが百田光雄は米村に敗れました。ミスター林はムラサキに勝利。

結果、国際プロレスが1勝4敗2両リンと最終戦で大きく負け越してしまい2点加算の34点で終了。全日本プロレスは4勝1敗2両リン、8点加算の36点で逆転勝ち。

国際プロレスは対抗戦のスコアでは負けましたがアジア・タッグ王座を防衛に成功し、調整を図った感じでした。 

馬場は「対抗戦は吉原さんが持ちかけてきた話」と言っており、それがこの時を指すのか、前年の蔵前のことを指すのかは不明ですが、おそらく、全軍対抗戦も吉原が持ち掛けた話でしょう。吉原は団体戦での勝ちを全日本プロレスに譲った代わりに、ベルトを年明けまで保持させてもらうことにしたのでしょう。

後もう一つ不思議なのが会場の手配が全日本プロレス側が間に合わず、国際プロレスがダイナマイト・シリーズ用に会場を押さえていたのを、対抗戦に振り替えたという「定説」です。

ダイナマイト・シリーズ(この年は4月にもワイルド・アンガス、マスクド・インベーダー、ジェリー&ボビーのクリスティー兄弟らを呼んで同じ名称のダイナマイト・シリーズを開催、営業部のミスで春秋同じ名称のシリーズを開催してしまった)の参加外国人はキラー・ブルックス、"アンドレより重く、カルホーンより高い"のブルドーザー・ビッグ・ベン、キューバン・アサシン1号、ロバート・ハンビー、ボブ・ブーシェ、スウィート・ダディ・バンクスというメンバー。

ブルックス以外は二線級以下。11月6日には後楽園ホール、最終戦11月24日越谷市体育館。後楽園では小鹿&大熊組vsM井上&浜口組のアジア・タッグ選手権試合、越谷でR木村vsブルックスのIWA世界ヘビー級選手権試合が組まれていますが、このシリーズはブルックスのパートナーが務まるような外国人がおらず、草津&浜口組が保持していたIWA世界タッグ王座の防衛戦も組まれていません。

対抗戦に使われた会場は前橋、大曲、宮古、大田、静岡、和歌山と国際プロレスにとっては小さいハコではありません。ダイナマイト・シリーズ参加のメンバーで通常のカードを見せても客が入る訳もなく、最初から全軍対抗戦の為に国際プロレスが押さえていたのではないかと思います。

また、ブルドーザー・ビッグ・ベンの招聘について長年私はある仮設を立てておりました。

前に書いた通り、この年の4〜8月にM井上がカナダ・カルガリーへ遠征していますが。7月10日、カルガリー・スタンビート・パビリオンで開催されるスチュ・ハート派のビッグマッチにM井上が出場、AWAから参戦して来た帝王バーン・ガニアとシングルマッチで30分時間切れ引き分け。

メインイベントはハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座にアンドレ・ザ・ジャイアントが挑戦してレイスが反則勝ちで防衛。

M井上は親友アンドレと再会して旧交を温めましたが、おそらく茨城清志氏が撮影したと思われるM井上のカルガリー遠征のスナップ写真の中にM井上、大剛鉄之介に消息不明と言われていたグレート・アントニオが3ショットで写っているものがプロレス誌77年10月号に掲載されました。

これを見ていたファンは「アントニオ、生きていたか」位の感覚で見ていたでしょうが、アントニオがわざわざ試合観戦の為にパビリオンまで来てたまたまM井上、ブッカーの大剛と写真に収まる訳もなく、国際プロレスに年内招聘ということになっていたかと思います。

この写真を見た新日本プロレスがアントニオを横取りにかかり、国際よりいい条件でアントニオに声をかけて年末に、「無法乱入」という形で新日本プロレスに来日。

ビッグ・ベンはアントニオを横取りされた国際プロレスがカナダのマリタイム地区にいた身体の大きな若いジョバーを怪物ギミックに仕立て上げて代わりに呼んだ、という仮設です。ビッグ・ベンはスタイルはカルホーンと同じオーバーオールですが、マネージャー役のアサシン1号にチェーンで首を引っ張られながら入場してくる、まさに61年に日本プロレスに初来日したアントニオがグレート東郷にチェーンで繋がれて入ってくる怪物ギミックそのものでした。

私はSNSで交流のある昭和プロレス研究の大御所、Mさんにその疑問をぶつけ、Mさんはわざわざ当時週刊ファイトの海外通信員をしていたフランク井上(井上譲二)氏に確認を取って下さり、その推測で間違いないとの回答を頂きました。

ビッグ・ベンはカナダの若手巨漢レスラーの変身でした。しかし、もしアントニオが77年末に国際に来ていたら、猪木戦のようなことは起きず、R木村と真っ向肉弾勝負でぶつかり、金網デスマッチでもいい試合をやり、レギュラー外国人になれたかも知れないです。

3ショット写真をマスコミに公開を許してしまう国際プロレスの脇の甘さ…
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