85年4月18日、ビッグ・ファイト・シリーズ第2弾最終戦、両国国技館初進出(テレビ収録、観衆11,066人超満員発表)、3月9日、全日本プロレスでの同所でのプロレスこけら落とし(鶴田&天龍組vsザ・ロード・ウォリアーズのインターナショナル・タッグ選手権試合)が11,000人(超満員発表)だっただけに後発の新日本プロレスは負けられないところでしたが、猪木vsブルーザー・ブロディの初対決という黄金カードを持ってきただけに観客動員数はほぼ互角でした。
新日本プロレスでは、この3日前のオフ日に当たる4月15日に後楽園ホールを押さえ、2,000円の入場料を取っての両国大会のプロモーションも兼ねた猪木、ブロディによる有料公開スパーリングを行いました。
新日本プロレスが大会前に後楽園ホールで有料公開スパーリングを行ったのは76年6月20日、モハメド・アリ戦(同6月26日日本武道館)、80年2月10日、ウィリー・ウイリアムス戦(同2月27日蔵前国技館)の2つの異種格闘技戦の前にだけで、純粋なプロレスラー同士の試合ではこれが初。
いかにブロディが別格の大物であったかがわかるというものです。
両国国技館初使用となる新日本プロレスは前84年6月14日、蔵前国技館でのハルク・ホーガンvs猪木のIWGP優勝決定戦での長州力乱入による不透明決着から、観客が暴動を起こし、国技館の建物を毀損させる事故を起こしており、日本相撲協会の意向には細心の注意を払っていました。
蔵前国技館は取り壊しが決まっていたこともありお咎めなしでしたが新築したばかりの両国国技館を傷つけたら使用禁止になりかねない。
そんなところから新日本プロレスはブロディが入場時に入って来るチェーンの使用禁止をブロディ側に通告。
これに激怒したブロディが控室(国技館の場合は支度部屋)から物凄い勢いで走ってきて日本側の控室を襲撃。猪木に襲いかかり右肘を殴打して負傷を負わせてしまいました。
試合はブロディが先に「移民の歌」の入場テーマ曲に乗って入場。全日本プロレスで使われてきた石松元と彼のバンドによるインストゥルメンタルではなく本家レッド・ツェッペリン版。全日本プロレス時代には着用していなかった毛皮のコスチュームを着用、手にはチェーンを保って振り回しての入場。
続いて猪木の入場…ですが右肘のダメージがあり「炎のファイター」の入場テーマ曲が鳴ってもなかなか出て来ない。控室で大竹(だいたけ)トレーナーに応急処置をしてもらい、肘に包帯を巻いてもらい試合に臨みました。
猪木が入場してくる時には炎のファイターがほぼフルコーラスで掛かって終わる頃にようやくリングイン。
猪木の右肘には白い包帯が巻かれていました。
試合は独特の間合いを取りながら自分のペースで試合をするブロディに猪木は苛立ちを隠せず。綺麗なバックドロップも決めていきましたが決定打とはならず、延髄斬りもブロディは身体をグラつかせてようやく倒れかかりました。
猪木はブロディの毛皮付きブーツを脱がすと膝にアリキックの連発。これは効いたかブロディは膝から出血。この出血がいかにも不自然として後にフラメンコダンサーで猪木ファンの板坂剛が不正出血であると著書で指摘しています。
ブロディはジャイアントスイングで猪木をの身体を回しましたが膝のダメージが深くて不十分に終わり、最後は再び場外戦、26分20秒、両者リングアウトとなっています。
猪木vsブロディ、「運命の対決」第一戦はドローに終わりました。
ログインしてコメントを確認・投稿する