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2019年02月14日08:21

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法隆寺について

法隆寺について

小野妹子は、607年 推古天皇の摂政である聖徳太子に選ばれ、遣隋使として隋に渡る。
当時、中国の戦乱が続いていたため、日本(倭)と中国の国交が長く途絶えていたが、、日本(倭)は300年ぶりに隋が中国を統一したのを機に国交を再開したいと考える。
そもそも、朝貢は、卑弥呼から始まる。古墳時代は、豪族の争いの時代であるので、朝貢をする余裕はなかった。その後、応神天皇の時代になって、大和朝廷が安定するやいなや、再び朝貢外交が始まる。南朝の宋の時代(420年-479年)、倭の五王が朝貢したことが記録に残っているが、雄略天皇以降、他の倭王が朝貢したかどうかは記録がない。多分、中国の戦乱が続いていたため、日本(倭)と中国の国交が長く途絶えていたのであろう。
倭の支配者たちは朝貢(貢物)することで、中国に倭の支配者として認めてもらう「 冊封 」という外交政策をとっており、倭は中国の事実上の属国であった。
そこで、馬子が国書を作る際、聖徳太子は、その作成に関与し、「 天子 」という言葉を使って、隋に倭を属国から独立国として認めさせようとした。そのためにまずやらねばならないことは、日本の国が中国が認めうるような立派な国でなければならないので、聖徳太子は憲法17条を作ったのである。第1条はかの有名な「和を以て貴しとなす」であるが、第2条に「篤く三宝を敬へ」とあり、聖徳太子は、仏教によって国の規範を正そうとして、法隆寺を創建したのである。

法隆寺について: http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/houryuujini.pdf




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