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2019年02月08日07:40

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人は何故狐に騙されなくなったのか(その3)

人はなぜ狐に騙されなくなったのか(その3)
(2) 内山節(たかし)の説(その1)


  すべてのものを自分の村のなかでつくり変えながら生きていく。そういう生き方をしていた人々にとつては、知 性の継続、身体性の継続、生命性の継続(注: 森岡正博の無痛文明論では人間の欲望を身体の欲望と生命の欲望に分けている。)が 必要であった。ときには人々は知性を働かせて生きなければならない。しかし、知性だけで村の暮らしはつくれない。
第二に身体性の継続と継承が必要になる。 それは多の場合は「技」という言葉と同一化していて、田畑をつくる技,用水路を維持する技、道を守る技、石組みや建築の技、山からいろいろなものを採取す る技、さらにさまざまなものを加工する技。そういったものが身体に刻み込まれるかたちで受け継がれていくことが必要だった。身体それ自身の力をとおして、 村人は一面では村の歴史をつくってきたのである。

  もうひとつ、生命性の歴史とでもいうべきものがある。自然の生命と人間の生命が結び合いながら生きてきた歴史である。
  日本では、伝統的には、自然を人間の外に展開する客観的なものとしてとらえる発想がなかった。その理由は、村の自然としてつくり変えたものが自然だったか らである。自 然は自然の力だけで生命的世界を築いているわけではな く、「ご先祖様」の力が加わってつくられているものでもあった。自然の歴史と人間の歴史は一体なのである。

 た だしすべての自然がそうなわけではない。山奥には、自然の力だけで展開する自然が存在する。それが人智を準えた自然であった。その自然は人里の生活に危険 を与えないがゆえにつくり変える必要のない自然であり、純粋な自然(注: 奥山の自然)で ある。村とはこの純粋な自然を奥にもち、その 下に村人によってつくり変えられた自然(注: 里山の自然)と 里(注: ムラとノラ)を 展開させる世界であった。

  そして人々はこの全体のなかに生命の流れをみた。純 粋な自然 か ら里へと降りてくる生命の流れである。自 然も人間もこの世界のなかに暮らしている 自然そのものであり、自然に還った「ご先祖様」でもある「神」もこの生命の流れのなかに存在している。だ から「神」は純粋な自然としての奥山、霊山に暮らしながら、つくり変えられた自然のなかにも水神や山神として暮らし、さらに里にも「田の神」や「土地神 様」として暮らす。同 じ神がそれぞれの場所でそれぞれの姿を現わすのである。
私たちの祖先はそうい うものを「権 現様」 と呼んできた。


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