84年グランド・チャンピオン・カーニバルPART�機■慣遑尭�は北九州市西日本総合展示場(観衆3,200人発表)大会。
メインイベントは鶴田、天龍組とスタン・ハンセン、ロン・バス組が激突した3月23日、木更津市倉形スポーツ会館での開幕戦の再戦。
2日前の4月4日、岡山武道館で馬場、鶴田組の保持するインターナショナル・タッグ王座に挑戦し敗れているハンセン、バス組は鶴龍コンビに敗れたら、次回のチャンスは危ういところ。
鶴田がハンセンにジャンピング・ニーパット、ハンセンは勢い余って場外転落。鶴田もこれを追って場外へ。コーナーにいた天龍とバスも場外乱闘に加わって、果てしない場外戦が続き、13分6秒、両チームリングアウトの引き分けとなりました。
セミファイナルは馬場とマイティ井上が珍しい2人だけのタッグを結成、テッド・デビアス、ボブ・ブラウン組と対戦、9分23秒、M井上がサマーソルト・ドロップ2連発からの体固めでブラウンをフォール。
阿修羅・原vsバグジー・マグローは6分24秒、両者リングアウトの引き分け。
この日より参戦のカナダの荒熊ジョー・ルダックはロッキー羽田とシングルで対戦し4分54秒、ペンデュラム・バックブリーカーからの体固めで勝利を飾りました。
4月11日、大分県立荷揚町体育館(観衆3,000人発表)ではメインイベントで鶴田、石川敬士組とハンセン、バス組が激突、10分3秒、ハンセンが石川をウェスタン・ラリアットからの体固めで豪快なフォール勝ち。この日まで参加のバスはハンセンとのコンビで有終の美を飾りました。
この日のセミファイナルで天龍のUNヘビー級王座に原が挑戦。天龍と原のシングルマッチは原が国際プロレス崩壊後の81年10月2日、後楽園ホールで対戦し、両者リングアウトで引き分けて以来のこと。
前回、国際プロレスが崩壊し原は一度は吉原功社長の方針に従い、新日本プロレスとの対抗戦(81年10月8日、蔵前国技館)に出場の意思を表明、9月7日に新宿・京王プラザホテルで行なわれた記者会見にも出席。
藤波との対戦が決まっていましたが心変わりし「ヘビー級の俺が何でジュニアの藤波と対戦しなくてはならないのか!?」と抗議し対抗戦不出場を表明。(後日、原は雑誌のインタビューで「あの時は藤波さんに悪いことをした」と述懐している)
全日本プロレスの天龍をターゲットとし、「自分と大してキャリアが変わらない天龍が全日本所属というだけでリック・フレアー(のNWA世界ヘビー級王座)に挑戦出来るのはおかしい。俺に勝ってからフレアーに挑戦しろ!」とアピール。(天龍は10月6日、仙台・宮城県スポーツセンターでフレアーのNWA世界王座に初挑戦が決定していた)
ジャイアント・シリーズ開幕戦で対戦。フリー参戦した原は天龍戦の試合内容を高く評価され全日本プロレス入団が決まっています。
それから2年半、UNヘビー級王座を賭けての再戦は両者真っ向からぶつかり合う好試合となりました。
原のラグビータックルは天龍にかわされ、原は場外に転落。そこへ天龍がプランチャ。
両者場外戦となり、リングに戻ろうとした天龍に原は場外でバックドロップ。カウントは進み19分38秒、両者リングアウトの引き分けでまたも決着つかず。
天龍は2度目の防衛に成功、この試合を見ていた馬場が両者の試合内容を絶賛、早くも4月16日、後楽園ホールで再戦が行われることになりました。
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