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2018年11月23日15:47

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ジャンボ鶴田怪物伝説(412)

大木金太郎は馬場に好条件を呈示され、新日本プロレスから全日本プロレスにあっさり移籍を決めています。当時副業として行っていた水産品加工卸売が多忙になり資金が必要だったこともあったかと思います。

75年9月22日、馬場は大韓プロレス協会の権五台会長の招きに応じて韓国マット界を視察しています。(これもアングル)夜、権会長、馬場、同行したグレート小鹿、大熊元司らがホテルのラウンジで食事をしていた時に大木が半袖シャツにズボンという軽装で現れました。

大木「馬場さん、あんたここまで来て俺に挨拶もなしか、失礼じゃないか!また逃げるのか(日本プロレス時代、馬場が大木と闘わずインターナショナル王座のベルトを返上していったことを指すか?)、俺とやる気があるのか!」物凄い剣幕で馬場に詰め寄りました。

馬場「失礼なのはそっちだ。食事中に来て何を言っているのか?向こう(新日本プロレス)とは何もないのか?」

大木「(新日本プロレスとは)ない。やるのかやらないのか、今ここでハッキリさせろ!」

ここで「仕掛人」の小鹿が割って入り「大木さん、今日はこのぐらいで…」と大木をなだめ、大木は退席しています。

馬場は翌9月23日、ソウル市奨忠体育館で行われたパク・ソンナンvsボボ・ブラジルのWWA認定USヘビー級選手権試合(パクがブラジルに足4の字固め、ブラジルはギブアップせずにレフェリーストップによりパクの防衛)を視察、この大会には新日本から星野勘太郎(呂建夫)も出場していました。

馬場は日本から来ていたマスコミに「大木の挑戦については新日本プロレスとは何の関係もないということだから断る理由はないが、日本から帰ってから正式に返答する」とコメント。

帰国後、馬場はジャイアント・シリーズ最終戦の10月30日、蔵前国技館で大木の挑戦を受けると発表。(ノンタイトル時間無制限1本勝負)。

当日の蔵前は12,000人超満員発表の大観衆で埋まりました。一つ前の東京の大会場でのビッグマッチ、7月25日、日大講堂での馬場vsフリッツ・フォン・エリックのテキサス・デスマッチが5,900人発表だったことを考えるといかに観客の関心が高かったかが分かります。

馬場と大木の一騎打ちはダブル・メインイベントの第1試合として行われました。(ダブルメイン第2試合はブッチャーvs鶴田のPWF認定USヘビー級選手権試合)


馬場は1週間前の10月23日、青森県営体育館での&高千穂明久vsアブドーラ・ザ・ブッチャー、プリンス・ピューリン組との試合でブッチャーに頭部を攻撃されて負傷。(翌24日、弘前市民体育館では試合に出場はしたが、調子が悪く、初来日のボビー・ジャガーズにシングルで9分58秒、フォール負け)負傷した頭部めがけ大木が原爆頭突きの連発、ボディにも頭突き。馬場は額から早くも流血。

場外に落ちる馬場、大木は勝利を確信したかのような雄叫び。リングに上がった馬場にショルダータックル、もう1回、馬場は狙いすましたかのようなランニング・ネックブリーカー一発。カバーに入り6分49秒体固め。馬場は猪木が大木を倒した(13分13秒)約半分の時間で大木を倒して見せました。

大木はその後全日本プロレスにレギュラー参戦、76年10月28日、蔵前国技館と77年11月7日、韓国・ソウル市文化体育館で2度に亘りキム・ドク(戸口正徳)との韓国師弟コンビで馬場、鶴田組からインターナショナル・タッグ王座を奪取。

また、プロモーターとしても76年8月にネバダ州レイクタホーで開催されたNWA総会において馬場の推薦で「満場一致」で加盟が認められました。

上田馬之助が新日本プロレスでヒールとして大ブレイクしているのを見たか、馬場は大木にヒールファイトを要求するようになり、77年7月28日、品川スポーツランド(プリンスホテル・ゴールドホール)での鶴田とのUN、アジア両ヘビー級選手権試合(鶴田試練の十番勝負第9戦、1−1から両者リングアウト)、同10月5日、大阪府立体育会館、10月29日、黒磯市公会堂での馬場とのPWF、アジア両ヘビー級選手権試合(大阪は両者リングアウト、黒磯では馬場が15分21秒、片エビ固めで勝ちアジア王座も獲得)等では大木はダーティな急所攻撃を見せていました。

ドクが78年9月13日、愛知県体育館、79年1月29日、大阪府立体育会館で鶴田のUNヘビー級王座に挑戦、2度とも1−1から60分時間切れ引き分け(名古屋は5分延長)の名勝負を展開し、シングルプレーヤーとして実力をつけて来たのを見た馬場は大木とドクの韓国師弟コンビを解体させる方針に出ました。

大木は79年3月の第7回チャンピオン・カーニバルから「ブッチャー軍団」入りし、ブッチャーやキラー・トーア・カマタとタッグを結成しました。

7月にノースカロライナのサーキットから戻ったドクは「大木さんがブッチャーと組んでいるのはおかしい、悪に魂を売り飛ばしたのか?もう大木さんとはタッグは組めない」と大木との決別を宣言。

身柄をザ・ファンクス預かりとし、ファンクスの手によってドクは全日本プロレスに入団を発表。リングネームも戸口正徳に戻しました。(後日、ドク自身の話によると、77年10月に全日本に来た時から所属契約を結んでいたとのこと。翌シリーズからファン投票によりリングネームをタイガー戸口に改名した)

戸口は全日本第3の男として師匠大木と敵対。大木はヒールサイドとしてブッチャー、ザ・シーク、ブラジル、カルロス・コロンとタッグを結成しました。馬場は新日本プロレスのように大木と戸口を遺恨精算マッチみたいにシングルで闘わせるような残酷なマッチメークはしませんでしたが、11月の世界最強タッグ決定リーグ戦にはカマタと組んでエントリーしました。

この間も大木は韓国においてインターナショナル王座の防衛戦を行っていました。79年12月15日の力道山17回忌追善興行でのフランク・ヒルとの試合が23度目の防衛戦と大木自身が語っています。

80年2月18日、高田馬場BIG−BOXで記者会見が行われ、大木の国際プロレス入団が発表されています。 

私個人的には韓国では国民的英雄であり、ヒーロー嗜好の強い大木が、急所攻撃をやったりブッチャーやカマタとタッグを組まされなくなって良かったなぁ、と思いましたが、大木の入団の動機は「日本でインターナショナル王座の防衛戦を行いたい」というものでした。

実際は国際プロレスを放送していた東京12チャンネル(テレビ東京)主導で視聴率回復の為にテコ入れとして入団に動いたもので、「ラッシャー木村、大木2大エース時代到来」とアピールしましたが、この時既に51歳となっていた大木には新鮮味もなく、起爆剤とはなりませんでした。

80年5月15日、大宮スケートセンターでジョー・ルダックを2−1で破り日本で7年ぶりにインターナショナル王座の防衛戦を行った大木は「ようやく日本でインターナショナル王座の防衛戦をやることが出来ました」と喜びのコメントをしていましたが、国際の吉原功社長は馬場に遠慮してか、「ウチはリングを貸しているだけ」とあくまで中立である旨の発言をし、IWAが認定したものではないことを強調しました。

その後大木は国際のリングでルダック(韓国)、ジプシー・ジョー、ビル・ドロモ、上田と防衛を果たしましたが、11月のデビリッシュ・ファイト・シリーズの前半戦で、「右角膜エロゲオン」なる病気を理由に韓国へ帰国。そのまま退団となりました。

病気は表向きで大木は東京12、国際プロレスと「半年契約」だった為、テレビ視聴率、観客動員とも増えないことから契約更改されなかったものでした。

日本で上がるリングがなくなった大木は馬場と接触、水産品加工事業が不振だった(最終的には倒産)大木は全日本プロレスへの復帰とバーターで、ついに「力道山先生の形見」と後生大事に保持していたインターナショナル王座のベルトを馬場に渡すことに同意しています。

81年3月4日、韓国・ソウル市文化体育館で全日本プロレスがブッキングしたボブ・ブラウンを破り29度目の防衛に成功すると、大木はNWA会長のジム・クロケット・ジュニアからの「勧告」に従いインターナショナル王座のベルトを返上しています。
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