一方、73年11月の創立1周年記念ジャイアント・シリーズを最後に全日本プロレスから離れ、韓国に帰っていた金一こと大木金太郎は母国で水産品加工卸売の事業を開始。
そんな大木に新日本プロレスの新間寿営業本部長が声をかけ、大木は新日本プロレスのリングに登場、74年10月10日、蔵前国技館で猪木のNWF世界ヘビー級王座に挑戦、13分13秒、バックドロップからの体固めでフォール負け。その殺伐とした喧嘩ファイトはビル・ロビンソン戦と並び猪木生涯のベストバウトに挙げる人は多いです。
翌75年3月には猪木以外新日本プロレス勢が大木の招きにより韓国ツアーに参加、3月27日、ソウル市奨忠体育館で猪木が大木のインターナショナル王座に挑戦、13分38秒、両者リングアウトの引き分けとなりました。
馬場はこの時、インターナショナル王座が猪木に横取りされる危惧感を抱きました。
4月4日に開幕した新日本プロレス第2回ワールド・リーグ戦に大木は出場、開幕戦の蔵前では猪木と公式戦で対戦しゴングと同時の頭突きラッシュで1分16秒、リングアウト勝ち。猪木との対戦成績を1勝1敗1分の五分としました。
このリーグ戦は日本プロレス崩壊にまつわる経緯から坂口との遺恨試合が行われ、大きな話題を提供しました。4月25日、福山市体育館では14分41秒、ノーコンテスト。通常のリーグ戦であれば両者無得点で終わりですが、坂口と大木の試合は試合は「プロレスの枠を超えた私闘」と見做され、東スポの桜井康雄、日刊スポーツの鈴木庄一、デイリースポーツの石川雅清、ゴングの竹内宏介、ベースボールマガジン社プロレス編集長、藤澤久隆らマスコミ識者が中心に成り異例の「試合監視委員会」が立ち上げられ、「両者ともにプロレスのルールに則って決着をつけるべき」
として5月9日、高松市民文化センターで異例ともいうべき再戦が行われました。この時は13分59秒、場外で錯乱した大木がリングアウト負けしています。
リーグ戦は猪木、坂口、ストロング小林に勝利、大木と両リンとなり、山本小鉄に不覚の金星を許したキラー・カール・クラップが13勝1敗1分の13.5点で1位通過。
2位には大木、クラップに負け、S小林に時間切れ引き分けとなった猪木。猪木、クラップに負け、S小林と時間切れ引き分けとなった坂口。坂口、S小林に負け、クラップと両リンの大木。クラップに負け、猪木、坂口と時間切れ引き分け、スーパー・デストロイヤー(ネイル・グアイ)と両リンのS小林の4人が12.5点で並びました。
5月16日、日大講堂で行われた優勝決定戦では抽選により�|�木vsS小林、�∈筝�vs大木、���,両ー�vs�△両ー圈↓ぅ�ラップvs��の勝者という組合せとなり2位の選手は最大3試合行わないと優勝出来ないというクラップ絶対優位の組合せとなりました。
第1試合では猪木がS小林を20分22秒、グラウンド卍固めで小林の両肩をマットに着けての3カウントによるフォール勝ち。
第2試合の坂口vs大木はまたしても荒れた展開となり2分23秒、両者リングアウトとなり、試合監視委員会は両者失格を宣告。
これにより第1試合の勝者である猪木が優勝決定戦に進出、16分42秒、グラウンド卍固めによるギブアップ勝ちで2連覇を飾りました。
新日本プロレスも弱体外国人と言われながらもワールド・リーグ戦が興行的にも大成功を収め、大木と猪木、坂口との決着戦を行うべく秋にも大木を再び新日本のシリーズに上げる用意はありましたが….。
6月20日に大木が突如来日し記者会見を行い、極真空手の大山倍達最高師範に挑戦を表明、大木は大山の自伝で「私はアメリカでプロレスの試合を行ったが、力道山が勝てなかったタム・ライスに勝ち」という記述に噛みつき「力道山先生はライスに勝っている。力道山先生を引き合いに出すのは先生を侮辱するもので許し難い、弟子の私が大山先生と勝負し、力道山先生の名誉を守る」とアピール。
力道山は52〜53年にかけてのアメリカ修行時代に「負けたのはルー・テーズ、フレッド・アトキンス、ライスの3人だけ」と公言し著者にもそのように書いてありました。
「赤さそり」ライスは56年7月に日本プロレスに来日、9月2日、田園コロシアムで力道山はライスに勝ち、アメリカ修行で敗れたリベンジを果たしています。大木の挑戦は単なるいちゃもんみたいなもので大山サイドが「極真空手は他流試合はしない」と相手にしなかった為、実現にも至りませんでしたが、この時馬場の「密命」を受けたグレート小鹿が来日した大木に接触。
馬場にすればこのままいけば大木のインターナショナル王座が近い内に新日本プロレスの管理下に置かれてしまうこと、猪木と大木の対戦成績は1勝1敗1分ながら、最後「勝ち逃げ」していることに着目、大木引き抜きを画策し、実行に移しました。
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