全日本プロレス84年グランド・チャンピオン・カーニバルPART�機�後半戦の見どころは新設されたPWF世界タッグ王座決定リーグ戦。
4月13日、京都府立体育館から4月25日、横浜文化体育館まで、馬場、ドリー・ファンク・ジュニア組、鶴田、天龍組、スタン・ハンセン、ブルーザー・ブロディ組、AWA代表グレッグ・ガニア、ジム・ブランゼル組のザ・ハイフライヤーズの4チームによる2回総当たりリーグ戦で、○勝ち2点、△時間切れ引き分け1点、▲両チームリングアウト、●負け0点で最多得点チームが優勝。初代王者チームに認定されることになります。
リーグ戦自体は前83年の同時期に開催した「世界最強タッグ決定リーグ戦リマッチ」の焼き直し企画ですが、リマッチに優勝したところで11月の本リーグ戦にアドバンテージが与えられる訳でもなく、目的という意味では今一つリマッチの開催意義というものがファンには伝わりにくいものでした。
何故、馬場がここでインターナショナル・タッグ王座に次ぐ第2のタッグベルトを作ろうと考えたのか?
馬場が全日本プロレスを設立した際、団体の看板ベルトとなるPWF(世界)ヘビー級王座のベルト新設にはいち早く着手しましたが、その時「PWFタッグ王座のベルトも何故作らないのか?」と全日本プロレスのファンからも要望の声が多数上がりました。
馬場は日本プロレス時代に自分の代名詞的ベルトだったインターナショナル王座、インターナショナル・タッグ王座には強い愛着と拘りを持っていて(とりわけシングル)、72年7月29日、日本プロレスからの独立を表明した後もインターナショナル・タッグはパートナーの坂口征二が日本プロレスに残る為に返上することは仕方ないと考えていたものの、シングルについては「持って出ていく」と公言していました。
勿論、ベルトは個人に帰属するものではなく、団体に権利があることは馬場も承知していましたが、ベルトへの愛着と「自分以外に力道山の遺したインターナショナル王者は務まらない」という自負があったのではないかと思われます。
これには日本プロレスの芳の里社長、大木金太郎が激怒。「馬場がインターナショナル・チャンピオンのベルトを持ったまま日本プロレスを出ていくなど断じて認められない。どうしても持って行きたければ大木と勝負して勝って持って出て行け!」と反論。
決戦の舞台として9月6日の田園コロシアムが用意されましたが、大木がこの試合でセメントマッチを仕掛けて来るという危険性があったことと、既に日本テレビが放送を打ち切り、NETの独占放送となっていた日本プロレスのリングに日本テレビのバックアップで新団体を旗揚げする馬場が上がる訳にもいかないと言うことで馬場は9月2日にインターナショナル王座を椎名悦三郎日本プロレスリング・コミッショナーに返上しました。
そこで馬場は力道山家(百田家)に働きかけ、力道山が保有していた力道山が生前巻いていたインターナショナル王座のベルト(王座は力道山死後の65年、日本プロレスで復活しているが、新たなベルトが作られ、力道山が巻いていたベルトは力道山家に返還されていた)を復活させ、新たに「世界ヘビー級選手権」として世界の強豪を相手に王座争覇戦を10試合行うことを発表。
ブルーノ・サンマルチノ(2回)、テリー・ファンク、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ザ・デストロイヤー、ウィルバー・スナイダー(2回)、ドン・レオ・ジョナサン、パット・オコーナーらと激闘を展開。
最終戦となった73年2月27日、日大講堂で、かつてインターナショナル王座を奪われた苦手のボボ・ブラジルを2−1で破った馬場は10戦8勝2分で争覇戦を完走。師匠力道山が巻いていたベルトを獲得しています。
3月16日、馬場の世界ヘビー級王座はハワイのホノルルを本部に設立されたPWF(パシフィック・レスリング・フェデレーション、太平洋沿岸レスリング同盟、ロード・ブレアース会長)の認定となりました。(73年2月の『臨時』NWA総会でNWAのメンバーとなった馬場はこの年一杯で『世界』の二字を削除)
一方、馬場が日本プロレスに置いて行ったインターナショナル王座は72年12月1日、横浜文化体育館で大木とブラジルにより王座決定戦が行われ、ブラジルが反則を使って勝利。同王座2度目の戴冠を果たしましたが12月4日には広島県立体育館で大木が雪辱を果たし「力道山先生の形見」の王座を獲得。(ブラジルは日本プロレスに来てから2か月後に全日本プロレスに来ている。観客の少ない日本プロレスに見切りをつけ、リングを降りれば親友である馬場の誘いに応じたもの)。
大木はその後ビリー・レッド・ライオン、フリッツ・フォン・エリックと防衛しましたが、日本プロレスは73年4月20日、群馬県吉井町体育館大会を最後に活動を停止。大木以下の日本プロレスの残党は力道山家の仲介で6月より全日本プロレスのリングに上がりましたが、大木は11月の創立1周年記念ジャイアント・シリーズを最後に全日本プロレスを離れ、韓国で防衛戦を行っていました。
馬場は、大木がインターナショナル王座を力道山の形見として後生大事に保持していることに腹を立てていたには違いありませんが、そこは自分が置いて行ったベルト、時が来るのをじっと待っていました。
しかし、タッグとなれば話は別。馬場は先ずインターナショナル・タッグ王座を自分が育てた愛弟子、鶴田とのタッグでベルトを巻きたいと画策を始めました。
73年4月にNET(テレビ朝日)の放送が付き、勢いに乗る新日本プロレスでは12月に猪木がジョニー・パワーズを破ってアメリカローカル団体のNWF世界ヘビー級王座を獲得。
実際にはNWFがクローズの為に新日本プロレスにベルトを売り渡した訳ですが、とにかく、全日本プロレスのPWFヘビー級王座、国際プロレスのIWA世界ヘビー級、同世界タッグ王座のいわゆる「団体のお手盛りベルト」ではないベルトを猪木が獲ったという事実に変わりはなく、馬場は「シングルに次いで、タッグもお手盛りベルトか?」とマスコミや猪木、新間、新日本プロレスのファン達に揶揄されるのを嫌い、PWFタッグ王座を敢えて作らず、日本プロレスの金庫に眠っていたインターナショナル・タッグ王座のベルト獲得に強い拘りを見せていたのです。
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