鶴田がAWA世界ヘビー級王者として初の北米サーキットを行うことは快挙でした。鶴田は日本人として初のAWA世界ヘビー級王者に輝きました。
70年1月、国際プロレスにAWAの帝王バーン・ガニアが初来日してから14年、国内の日本人選手ではストロング小林、グレート草津、サンダー杉山、マイティ井上が挑戦。
75年11月8日、ミネソタ州セントポール・シビックセンターでニック・ボックウィンクルがガニアを破って王者となってからは全日本プロレス、国際プロレスのリングで防衛戦が行なわれ、鶴田、ラッシャー木村、大木金太郎が挑みましたがノラリクラリ戦法のニックの前にいずれも涙を飲みました。
今回の王座移動に関しては、この年の1月23日、ニューヨークMSGでハルク・ホーガンがアイアン・シークを8分52秒、ギロチンドロップからの体固めでWWF世界ヘビー級王座を獲得し、ビンス・マクマホンによる全米制圧がスタートしたことと無関係ではありません。
ホーガンは前83年末までAWAと契約しており、ニックのAWA世界ヘビー級王座のトップコンテンダーとして何度も挑戦。ニックをあと一歩のところまで追い詰めていました。
「ホーガンはWWFと契約していたのではないのか?新日本プロレスにも来ている」と思われる方もいるかと思いますが、これはビンス・マクマホン・シニアとガニアが従前より友好関係にあり、AWAとWWFは選手の交流を積極的に行い、ホーガンはビンス・シニア了承の元AWAへ。
AWAからはアドリアン・アドニス、ジェシー・ベンチュラ等がWWFのリングに上がっていました。
83年にビンス・シニアが体調不良により入院、ビンスはWWFの運営会社だったキャピトル・レスリング・コーポレーションの株式を父ビンス・シニア、共同オーナーだったゴリラ・モンスーン、フィル・ザコ(ペンシルバニア州フィラデルフィアのプロモーター)から妻のリンダと共に買収。
コネチカット州スタンフォードにタイタン・スポーツ社を設立しWWFの経営権を取得しました。
父ビンス・シニア時代には「お互いのテリトリーは侵攻せず」という相互不可侵条約のような不文律がありましたが、ビンスは先ずホーガンをAWAから引き抜き、WWFの世界(この時点でWWFヘビー級王座から「世界」が復活している。『ビンスがNWAを脱退』という記述の文献もあるが、これは誤りで個人加盟だったNWAはビンス・シニアはメンバーであったがビンスは元々メンバーではない)ヘビー級王座に着かせ、NWA、AWAの各テリトリーで興行を開催するという「侵略」を開始しました。
84年2月10日、WWFはNWAの総本山、ミズーリ州セントルイスのキール・オーデトリアムに進出。(ホーガンvsマスクド・スーパースターのWWF世界ヘビー級タイトル戦がメイン、結果は18分57秒、ホーガンの反則勝ち)
次に狙い撃ちにされるのはガニアのAWA。ビンスから見れば、多数のプロモーターから成るカルテルであるNWAよりも、ガニアのオーナー企業であるAWAの方が遥かに攻略しやすい相手。
NWA系のプロモーターでは唯一交流のあったビンス・シニアの息子に裏切られたガニア。長年の商売仇のガニアに手を差し伸べるNWA加盟のプロモーターなどアメリカにはいません。
というよりも皆、ビンスの侵攻を恐れ、守りに入っていたというべきでしょう。
そこで、ガニアは交流関係にある馬場に相談を持ちかけました。
「ホーガンにやられっ放しのニックがこのまま王者だとイメージが悪い、ニックを一度王座から転落させる必要性がある」
そこで馬場が鶴田をショートリリーフのチャンピオンに推薦。自らも48年ロンドン五輪アマレス米国代表でレスリングの技術を見る目は人一倍厳しいガニアも大好きなオリンピックボーイである鶴田ならば異論がある訳もなく、鶴田がAWA世界ヘビー級王者としての北米サーキットが決まった訳です。
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