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2018年04月01日16:22

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ファンタジープロレスの巨匠桜井康雄さん追悼(326)

84年7月5日、大阪府立体育会館では藤波にカネックが挑戦したWWFインターナショナル・ヘビー級選手権試合が行われ、藤波が10分41秒、バックドロップからの体固めで王座防衛。

その後7月20日、札幌中島体育センターで藤波に挑戦が決まっている長州が藤波との対戦を事前にアピールしており、猪木裁定により藤波がノンタイトルで長州と対戦。1日2試合行うこととなりました。試合は9分46秒、藤波の反則勝ちに終わっています。

7月8日、後楽園ホール大会の試合前に元国際プロレスの社長である吉原功が新日本プロレスの顧問に就任したと発表。

吉原は81年8月に国際プロレスをクローズさせた後、残務整理を済ませ、生命保険の外交員の仕事をしていましたが、約3年ぶりにプロレス界に復帰することになる訳です。

吉原の新日本での仕事は外国人選手のブッカーでした。長年ビンス・マクマホン・シニアのWWFと蜜月時代が続いていた新日本プロレスでしたが、ビンス・シニアが食道癌に冒されて体調を崩し、息子のビンスが実権を握るようになってからは従前のような交渉が出来ず。またマクマホン一家とリレーションが取れていた新間寿の退職によりWWFとの関係も微妙なものになって来ていました。

新日本プロレスも日本人の軍団抗争中心のマッチメークにシフトしており、外国人選手を冷遇してたのも事実でした。とはいえ、まだ外国人選手がいなければ興行が回っていかない時代でしたので、WWFだけに頼らす、低コストで呼べる外国人ルートが必要でした。

ビンス・シニアはこの年の5月29日にワシントンの病院で69歳で亡くなっており、息子のビンスは組みし難しと見ての新ルート開拓と思われますが、もう一つの要因はUWFの浦田昇社長が吉原をブッカーとして招き入れる、という話が進んでおりました。

カルガリーやオクラホマのアメリカ版UWF(旧MSWA、ビル・ワット代表)にパイプを持ち、さらに「資金さえあれば」バーン・ガニアのAWAにも顔が効く吉原にUWFに行かれては困ると、吉原の早稲田大学の先輩にあたる永里高平専務(テレビ朝日からの出向)が吉原にUWFへ行くことを止めさせ、新日本に来るよう説得。吉原はこれに応じました。

しかし、国際プロレス時代の資金繰りから来るストレスと過度の飲酒は吉原の肉体を確実に蝕んでおり、既に胃癌に冒されて体調を崩しておりました。

それでも吉原はプロレス業界で再び働けることを喜んでいたそうで、かつての部下でカルガリーに在住していた大剛鉄之助にコンタクトを取り新日本プロレスでの仕事を開始しています。

7月20日、札幌中島体育センターでは藤波に長州が挑戦したWWFインターナショナル・ヘビー級選手権試合が行われました。試合の途中で通路に猪木が姿を現し気を取られて藤波に背中を見せてしまった長州が15分8秒、バックドロップからフォール負けしスッキリしない結末に終わりました。

高田伸彦の退団によりダイナマイト・キッドのWWFジュニア・ヘビー級王座には従兄弟でありタッグパートナーのデービーボーイ・スミスが挑戦。キッドが貫禄勝ちで初防衛を果たしました。
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