選手層が厚くなった全日本プロレスではサンダー杉山はメインイベントから外されることも増えました。
ちなみに72年10月21日、町田市体育館での全日本プロレス旗揚げ前夜祭のメインイベントのカードは馬場、杉山組vsブルーノ・サンマルチノ、テリー・ファンク組で、やはりテレビ生中継では杉山のネームバリューがモノを言った感じでした。
杉山のポジションは74年頃からダウンしていき、ザ・デストロイヤーとのタレントタッグとか、シングルマッチが多くなり、75年の第3回チャンピオン・カーニバルからは1、2回とトーナメント本戦に参加していましたがエントリーされず。
とはいえ、兼業レスラーである杉山は欠場が多いかと言えばそんなことはなく、シリーズにはほぼ全大会参戦していました。
76年2月21日、後楽園ホールでのエキサイト・シリーズ開幕戦の控室で些細なことから馬場と杉山が口論となりました。副業の影響で杉山の会場入りが遅くなったのを馬場がたしなめたのが口論の原因と言われています。
馬場「お前なんか、辞めてしまえ!」
杉山「ああ、辞めてやりますよ!」
杉山は荷物を纏めて本当に控室を出ていってしまいました。同じ新潟県出身(杉山は糸魚川市)の大先輩の馬場をこのような形で逆らったのは杉山が初めてでした。
予定されていた杉山とテリー・マーチンの試合は代わりに既に試合を終えていたグレート小鹿が2試合出場でマーチンと対戦しています。
馬場と喧嘩別れした杉山は事業は順調でしたがやはりリング上への未練は断ち切り難く、古巣である国際プロレスの吉原功社長に打診しフリーとして限定参戦で4年ぶりに国際のリングに登場しています。
76年7月4日、後楽園ホールで開幕したビッグ・サマー・シリーズから限定参戦で国際のリングに復帰しています。
7月7日、大阪府立体育会館では前シリーズから外国人サイドからヒールとしてフリー参戦していた上田馬之助との中京コンビ(杉山は名古屋が生活の拠点、上田は愛知県海部郡弥富町の出身)でグレート草津、マイティ井上組のIWA世界タッグ王座に挑戦しています。(M井上と上田が1本ずつ取り合い、3本目は上田、杉山組の反則負け)
77年2月27日、後楽園ホールで開幕した国際創立10周年記念シリーズ、第6回IWAワールド・シリーズ&第1回IWAタッグ・トーナメントではスケジュールの都合からタッグ部門のみ剛竜馬と組んで参加しています。
その後事業多忙によりリングからはしばらく離れていましたが、プレ日本選手権は外敵メンバーが手薄であり、国際プロレスでタッグを組んでいた上田に声をかけられての新日本プロレス初参戦でしたが、スペースインベーダーのゲームを導入しゲーム喫茶の経営を開始、これが功を奏して翌79年には大きな利益を生み出したそうです。
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