6月のサマー・ファイト・シリーズに待望の新日本プロレス初参戦を果たしながらも、藤波のWWWFジュニア・ヘビー級王座への挑戦がならなかったチャボ・ゲレロは2か月少しという早いタームでの再登場。
開幕戦では星野勘太郎に体固めで勝利。このシリーズは長州がテレビマッチ起用が増えたのと反対に、ストロング小林のマッチメークでの「ランク落ち」がハッキリ出て開幕戦では永源遥とのシングルマッチ。カナディアン・バックブリーカーで勝っています。
10月13日、花巻市民体育館のテレビ生中継ではメインイベントは猪木とブルート・バーナードのシングルマッチ。
バーナードの初来日は68年11月の日本プロレスで、この時34年生まれの34歳という触れ込みでしたがスキンヘッドで年齢不詳の部分はあったものの、体型や動き、タイツの下からコルセットが見えており、ベテランの記者連中からは、
「どう見ても34歳はないだろう」と言われていましたが実際は21年生まれの47歳で、年齢を13もサバ読みしていました。
12月1日、仙台・宮城県スポーツセンター大会での猪木、大木金太郎組vsバーナード、ロニー・メイン(ムーンドッグ)組で、凶器に角材を持ち出して大木の耳を削ぐという事件を起こしています。
日本プロレス時代から馬場より猪木向けの選手であり、猪木との遺恨も勃発し12月13日、後楽園ホールでは猪木がカール・ゴッチとの特訓で編み出した新兵器卍固め(アントニオ・スペシャル)の初披露の相手となりギブアップ負け。
新日本への初参戦は75年1月の新春黄金シリーズ終盤戦特別参加で、当時日本プロレス参戦経験者の大物外国人をなかなか招聘することが出来なかった新日本としてはいい扱いでした。
NWF世界ヘビー級王座に挑戦するほどではありませんでしたが猪木とのシングルマッチは2月4日、大阪府立体育会館で実現。
凶器のスパナを持ち出して猪木の耳を削ごうと「耳削ぎ事件」の再来を狙いましたが逆に猪木にスパナを奪われて耳を攻撃されて耳から流血。
12分19秒、ブレーンバスターから体固めで敗れています。シリーズ最終戦の2月6日、大田区体育館では坂口とのシングルマッチが組まれましたが、坂口がバーナードをコブラツイストに捕らえたところでカナディアン・ワイルドマンがチェーンを持って乱入、坂口の反則勝ちになっています。
このシリーズ、フォールを許したのは猪木だけで坂口はバーナードから3つ取ってないです。
次の75年サマー・ファイト・シリーズでは地獄の料理人ハンス・シュミットとのタッグで来日、扱いはシュミットの方が上でした。やはり日本のファンにはシュミット式バックブリーカーの元祖としてのネームバリューは高く、大物が呼べなかった新日本としてはエース格に持って来ざるを得ません。
猪木とシュミットのシングルマッチは7月18日、唐津市体育館で実現、猪木が逆さ押さえ込みで勝っており、7月26日、沼津市体育館で行われた猪木vsバーナードのシングル戦も猪木の勝利だろうと思いきや、
バーナードの凶器攻撃と恐るべきタフネスぶりに劣勢となり、夏の暑さとテレビライトの熱でへばった猪木がリング上で経たり込んでしまい、
覗きこみに来たレフェリーのミスター高橋をバーナードと誤認してパンチで殴り飛ばして反則負けという失態をしてしまいました。
76年5月、モハメド・アリ戦の直前シリーズとなったゴールデン・ファイト・シリーズにバーナードの来日が発表されましたが来日前にオハイオ州で交通事故に遭ってしまい来日は中止。
頑丈な肉体を持つバーナードは懸命なリハビリの末カムバック、77年4月のゴールデン・ファイト・シリーズ前半戦に今回同様、キラー・カール・クラップと共に来日。
猪木との決着戦となったシングル戦は4月28日、沖縄・那覇市奥武山(おうのやま)体育館のテレビマッチで組まれ、8分25秒に両者リングアウト。
これを考えると猪木はバーナードを苦手にしていたか、とても大切にしていたように思います。
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