馬場の「門戸開放」宣言は結果的に当初の目的である「生意気な猪木を黙らせる」ことには成功し、猪木はしばらくの間、対馬場に関する発言を封印しています。猪木はこの年からウィリエム・ルスカとの一戦を皮切りとした格闘技世界一決定戦路線を歩んでいくことになる訳です。
76年2月16日、南青山にあった新日本プロレス事務所で記者会見を行った猪木は「この夏にアジア・リーグ戦を開催し、アジア・ヘビー級とアジア・タッグの両王座を新設する。よくアメリカや日本に来る外国人レスラーから『何故アジアの王者がいないのか?』と聴かれることがある。ここはアジア選手権を開催してアジア王者を決めたい。ついては全日本プロレスと国際プロレスにも参加を呼び掛けたい。全日本からは馬場、鶴田。国際からはラッシャー木村、マイティ井上の参加を希望する」とアピールしました。
勿論これは馬場、国際の吉原社長も反論。馬場は「こちらが来い、と言っている時には逃げておいて今度はアジア選手権をやるから出て来いとは理屈に合わない話」と無視を決め込みました。
吉原社長の怒りは馬場よりも強く、「ウチのR木村が挑戦したい、と言った時は格が違うだの、散々馬鹿にしていたくせに今度は新日本の興行に出て来いとは何事だ!」と猪木を強く非難しました。
ここでも猪木vs馬場、吉原連合の色合いが一層強く出た感じでしたが、猪木はこの時はあまり本気ではなく、「一応、お声掛けしましたよ」的レベルだったかと思います。
しかし、馬場はここでも反撃に出て、代官山の日本プロレスの事務所に保管してあったアジア・ヘビー級とアジア・タッグの両王座を復活させて「こちらが本家」とばかりに新日本のアジア・リーグ戦の開催に先駆けて韓国で王座決定戦を開催しています。
王座決定戦は76年3月25、26日の両日にかけて韓国・ソウル市金一文化体育館(韓国の国民的英雄、金一こと大木金太郎の功績を称えて前年オープンした体育館)で行われ、シングルは25日、最終王者だった大木がグレート小鹿を2-1で破り王座獲得。
タッグは26日、最終王者の片割れだった小鹿(パートナーはアメリカで消息を断ったとされる松岡厳鉄)が大熊元司との極道コンビで金一道場の呉大均、洪武雄組を2-1で破り王座獲得。
これも馬場が猪木の出鼻を挫く目的で復活させた感が強く、王座復活後の両ベルトの扱われ方は必ずしもいいとは言えませんでした。
そんな中、3月28日には蔵前国技館で全日本と国際の「全面対抗戦」が行われています。
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