オープン選手権の開催に先駆けて、75年11月3日、国際プロレスの後楽園ホールで、国際と全日本プロレスの対抗戦が行われました。
会場には馬場と百田敬子力道山未亡人も姿を現し観客に挨拶。吉原社長と握手をかわしています。
この日行われた対抗戦はスネーク奄美(国際)が元国際所属だった肥後宗典(本郷篤、全日本)に勝ち、大位山勝三(国際)が桜田一男(ケンドー・ナガサキ、全日本)に勝ち。
寺西勇、アニマル浜口組vs高千穂明久、サムソン・クツワダ組は20分時間切れも延長となり、4分59秒、高千穂がネックブリーカードロップから浜口を体固めに降しています。対抗戦は観客も大いに盛り上がり、この反応を見た吉原社長は「これはビジネスになる」との確信を得ました。
オープン選手権は国際プロレスとの合同開催ではありませんでしたが、国際を放送する東京12チャンネル(テレビ東京)からすれば、ラッシャー木村、グレート草津、マイティ井上の主力選手の試合は放送したいところ。
しかし、ファン投票で決められたという全日本と国際の主力選手の対戦はほとんど日本テレビが押さえてしまいました。
全日本側が国際に呈示した条件は2つ。
��12月15日、仙台・宮城県スポーツセンター大会を国際プロレスへの売り興行とする。
��12月11日、日本武道館で行われる力道山13回忌追善興行のうち、ヒロ・マツダvsM井上のNWA世界ジュニア・ヘビー級選手権試合、R木村vsバロン・フォン・ラシク、草津vsホースト・ホフマン、Sクツワダvsドン・レオ・ジョナサンの4試合を東京12チャンネルが放送するというものでした。
R木村、草津の対戦相手になったラシクとホフマンはAWAで活躍していた選手でした。バーン・ガニアがオーナーを務めるAWAと国際は69年夏のNWA総会で吉原社長がNWAに加盟申請をしましたが、日本プロレスの妨害に遭って反対多数により否決された後、吉原社長はそのままアメリカに残りミネアポリスにあるガニアのオフィスを尋ねて契約しています。
翌70年1月にガニアが国際に初来日、以後AWAのトップレスラー達が国際のリングに登場するようになり、国際に来る外国人選手もヨーロッパ勢からアメリカにシフト。
TBSの放送が打ち切られ、関東ローカルの東京12チャンネルが放送するようになってからは放映権料もダウンした為、ギャラの高いAWAの選手を呼ぶのはだんだんしんどくなって来ました。
74年9月にはスーパースター・ビリー・グラハム、ラシク。11月にはAWA世界ヘビー級王者のガニア、国際を橋渡し役にしてイギリスからAWAに主戦場を変えたビル・ロビンソン、AWA世界タッグ王者チームであるレイ・スチーブンス、ニック・ボックウィンクルを一度に呼んで見せ、東京12チャンネルの期待に応えようと張り切りました。
しかし、R木村、草津組vsグラハム、ラシク組のIWA世界タッグ選手権試合、12チャンネル側の意向で組まれた女子プロレス、元東洋興業の小畑千代にファビュラス・ムーラが挑戦したIWWA世界女子選手権試合をメインに組んだ9月23日の日大講堂が3000人発表。
ガニアvsロビンソンのAWA世界ヘビー級選手権試合が組まれた11月20日の蔵前国技館が4500人発表と興行的には惨敗。
翌11月21日に大阪府立体育会館で行われたガニアvsM井上のAWA、IWAダブルタイトル戦、ニック、スチーブンス組vsR木村、草津組のAWA、IWAタッグのダブルタイトル戦がM井上の地元大阪ということで何とか6200人発表と格好はついたものの満員マークはつかず。高いギャラを払って豪華メンバーを呼んでも集客に繋がりませんでした。
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