78年9月21日、品川プリンスホテルゴールドホールの試合前の控室に国際プロレスの吉原功社長が姿を表し、猪木、新間寿営業本部長を表敬訪問し、ファンやマスコミを驚かせました。
吉原社長は自身のプロレス生活25周年記念イベントとして11月に「日本リーグ争覇戦」の開催を予定していましたが、25周年に花を添えて欲しい、と新日本プロレスに選手の派遣を依頼。
新日本は星野勘太郎、山本小鉄を派遣する方向で前向きに検討していましたが、鶴田以下、主力選手を貸し出すことで協力を仰いでいた全日本プロレスの馬場が強い難色を示した為、新日本との話し合いを断念せざるを得なくなりました。
吉原社長が新日本の会場に足を運んだのは交渉経緯の説明(勿論、当時はオフレコ)とお詫び、また何かあったら協力をお願いします、と言ったニュアンスから来たものでした。
新間は「わかりました。今回は残念な結果に終わりましたがまた協力出来る事があれば言って下さい」と紳士的な対応を見せ、猪木も終始和やかな表情でかつての日本プロレスの先輩と談笑していました。
国際プロレスと全日本プロレスは72年に馬場が全日本を旗揚げして以来、6年間の長きに亘り協力関係にありました。
日本テレビの豊富な資金を元に、ドリー・ファンク・シニアを外国人選手のメインブッカーとして豪華外国人勢を招聘して旗揚げした全日本ですが、日本人選手の陣容が足らず、馬場は国際に選手の貸出を要請。
当時、医薬品メーカー、「スズケン」の営業部長として二枚のわらじを履いていて、フルタイマーではないことで他の選手と微妙な隙間があったサンダー杉山を円満移籍させ、さらに旗揚げシリーズには鶴見五郎、米村勉(天心)、デビル紫ら所属選手を派遣。
日本プロレスを退団してブランクのあった百田光雄、藤井誠之をカムバックさせていた程の人材不足だった全日本の前座戦線が充実。
73年2月のジャイアント・シリーズ結集戦までは国際の選手が全日本に登場。国際の選手も「試合内容で全日本の選手を食ってやれ」とばかりハッスルしマイティ井上と寺西勇の同門対決は国際ここにあり、を見せ付けた名勝負でした。
選手を貸し出してもらった見返りに馬場は72年11月29日、東京体育館と翌30日、水戸市茨城県スポーツセンターの国際プロレスの興行に参戦しています。
この時点では、選手を貸し出した国際プロレス側が交渉でも優位な立場にいた訳です。
このパワーバランスが逆転したのが、74年2月のストロング小林の退団、TBSの放送打ち切りという国際を襲ったクライシスでした。
さらに不幸な出来事は続き、マッドドッグ・バションに見込まれてカナダ・モントリオールに修行に出た大剛鉄之助の凱旋帰国が決まったさ中、大剛がモントリオール郊外のフリーウェイで交通事故に遭い右足切断の重傷を負ってレスラー生命を断たれてしまいました。
国際は大剛の凱旋帰国の舞台として74年3月26日から開幕するチャレンジ・シリーズの開幕戦に大剛の地元である仙台・宮城県スポーツセンターを用意していました。
このトリプルショックに馬場が助け船を出しました。鶴田の入団、ザ・デストロイヤーの助っ人参戦、アントン・ヘーシンクのプロレス転向、さらに日本プロレスの残党を受入したことで日本側メンバーも充実した馬場は大熊元司、高千穂明久、サムソン・クツワダを連れて国際のチャレンジ・シリーズに友情参戦したのです。
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