ヒロ・マツダに新日本プロレスとビジネスするように働きかけたのはマサ齋藤ですが、フロリダルートと全日本プロレスが疎遠になっていたのも一因としてあるかと思います。
ドリーとテリーのザ・ファンクスがブッカーとして幅を効かせている全日本のマットではフロリダ勢が入り込む余地は少なく、77年2月のエキサイト・シリーズにマイク・グラハムが来た位でフロリダを主戦場にしているディック・スレーターも既にエディ・グラハムとは切り離してブッキングされていました。ジャック・ブリスコがNWA世界ヘビー級王座から転落したことで全日本とフロリダの蜜月関係は一旦は終わったとみられます。
その点、新日本プロレスはWWWFとの提携はあったものの、MSGシリーズの顔ぶれをみると、バグジー・マグロー、チーフ・ジェイ・ストロンボー、バロン・シクルナ、トニー・ガレア等は明らかに新日本向きではなく、全面依存するのもどうか?と考えられ、マイク・ラーベルのロサンゼルスは興行的には既に下火になっており、カール・ゴッチもブッカーとしては新日本から不要にされており、まだまだ食い込む余地はありました。
それにNWA系の大物外国人を呼べる可能性があり新日本にとっても取引メリットは大でした。
マツダですが、日本人でも頭の中身は完全に外国人で、その辺りはビジネスライクに徹していたようです。
60年に力道山のやり方に逆らって日本プロレスを飛び出し、ペルーにいるとされる叔父を頼って海外へ出発、アメリカを主戦場にしていたフリーランサーのマツダは日本人特有のしがらみ等は気にしないタイプです。
66年5月、力道山死後の日本プロレスゴールデン・シリーズに凱旋帰国を果たし、吉村道明と組んでアジア・タッグ王座を獲得したマツダでしたが、
既にこの時、日本プロレスを退職することを決めていた取締役営業部長、吉原功と新団体の設立に向けての商談を水面下で行っていました。
新団体国際プロレスは66年10月に登記され67年1月から、先に旗揚げしながらも日本プロレスの妨害に遭い地方興行が思うように組めず、2シリーズ行ったのみで赤字から単独興行の開催が難しくなっていた豊登、猪木の東京プロレスとの合同興行として団体を旗揚げしています。
このシリーズではマツダと猪木のタッグもみられました。
しかし東京プロレスとの提携は僅か1シリーズのみで終了。
それから半年位シリーズは開催されませんでした。7月21日、名古屋市金山体育館から第2弾「パイオニア・サマー・シリーズ」を行い、8月14日には大阪府立体育会館、16日は蔵前国技館で興行を行いましたが不振に終わりました。
ちょうどこの時期、吉原社長とは早稲田大学の先輩に当たるTBS運動部長、森忠大がTBSで国際プロレスの中継開始に向けて動き、吉原は資金繰りの苦労から解放されるかと思われました。
マツダはこの時期に国際から離れています。
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