日本プロレス史上、日本人の団体所属選手が「金銭面の待遇の悪さを訴えて退団をし、マスコミがそれをストレートに書いた」というのはおそらくこれが初かと思います。
日本人はお金のことはあまり言わないのが美意識としてあり、これまでも金銭面で退団、引退した例は沢山あったかと思いますがそれを面と向かって公言したのは剛竜馬が初かと思います。
これ以降は団体が増加したこともあり、金銭面を理由にした退団、移籍は普通に表に出るようになりました。
新日本プロレスは藤波の日本人ライバルというかいわゆる「噛ませ犬」として剛の存在を利用しようと考えました。
団体内にはメキシコ修行に出たばかりの木村健吾位しかおらず、長州、木戸修はジュニアでなく、メキシコ遠征経験があり、空中戦にも対応出来る星野勘太郎は藤波より10歳も年齢が上で、ライバルと言うよりタッグパートナーとしてゲームメーカーとなり藤波を引き立ててもらう方が適していました。
そこで、4年前のストロング小林同様、国際で冷遇されていた剛に接触しました。剛を新日本のリングに上げるに当たってはカナダで一緒だった長州の口添えもあったと聞きます。
ただ団体のエースであったS小林とは違い、国際でも下の方でくすぶっていた剛とはやはり同じ扱いをする訳にもいかず一度「リニューアル」が必要でした。いわゆる「生まれ変わる」というやつです。
そこでヒロ・マツダを訪ねてコーチを要請し、マツダの手によってリニューアルされることになった訳です。
意外だったのはマツダの新日本プロレスとの接近でした。エディ・グラハムが代表を務めるCWF(チャンピオンシップ・レスリングフロリダ)の共同オーナーであるマツダは馬場派の人物として知られていました。
73年3月の第1回チャンピオン・カーニバルから全日本プロレスに助っ人参戦、74年2月のエキサイト・シリーズにはエディとマイクのグラハム父子と一緒に参加。年に1回は全日本に来ていました。
76年8月のNWA総会ではその1年前にNWAに加盟を「条件付き」で認められた猪木が1年を過ぎても保持していたNWF王座から「世界」の二字を削除していないことを指摘、新日本の興行用ポスターを証拠品として提示して糾弾しました。
(ビンス・シニアのWWWFも馬場のPWFもNWA加盟を機に慣例に従い世界の二字を削除)
こんなことは馬場に金を貰って頼まれでもしない限りやることは考えられず、馬場シンパであったマツダの心変わりには驚かされました。
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