東京以外の地方都市で行われた初の格闘技世界一決定戦は興行的にはまずまずの成功を収めました。
この間、藤波はシリーズオフにロサンゼルスに渡り6月9日、オリンピック・オーデトリアムでカルロス・マタの挑戦を受けてWWWFジュニア・ヘビー級王座防衛戦を行っています。
カルロス・マタはロサンゼルス地区でベビーフェイス人気の高かったラウル・マタの実弟でした。兄のラウルは76年の第3回ワールド・リーグ戦に初来日、ロサンゼルスではアメリカス・ヘビー級王者にもなったヒスパニック系の選手でしたが成績は不振に終わっています。
Cマタは風貌から体型、動きまで兄のラウルにそっくりでしたが、結局は未来日に終わっています。
試合前に国際プロレスを退団した剛竜馬がヒロ・マツダと共に姿を現し藤波に挑戦を表明しています。
剛は本名八木宏、56年3月23日神戸市出身の22歳。71年国際が主催した初の公募による新人オーディションにただ1人、15歳で合格。(最近になってそれ以前に日本プロレスの練習生だった事実が判明)
国際期待の星として17歳でヨーロッパ、カナダに修行に出て3年の長きに亘り活躍、新日本プロレスの吉田光雄(長州力)とはカナダ修行時代同じリングに上がった経験を持ちます。
76年7月のビッグ・サマー・シリーズに若干20歳で凱旋帰国、リングネームを剛竜馬に改め、開幕戦の7月4日、後楽園ホールでは稲妻二郎と20分時間切れ引き分け。
しかし、その後は泣かず飛ばず状態が続き、観客動員にも貢献出来ずに低迷していました。
77年11月に元ラグビー日本代表だった原進(阿修羅・原)がキャリア採用のような感じで国際プロレスに入団、11月29日、高田馬場BIG-BOXで吉原功代表、ラッシャー木村らが出席して盛大に入団記者会見が行われ、国際の次期エースは間違いないとの「鳴り物入り」入団、剛の立場は微妙なものになっていました。
剛の国際でのポジションは鶴見五郎より下で原に対するジェラシーか、国際に限界を感じたか、金銭面も含めた処遇に対する不満か、はたまたマッチメーカーをしていたグレート草津に嫌われたか、78年のダイナマイト・シリーズの途中で巡業を抜け出して実家のある神戸に戻ってしまいました。
5月11日、全日本プロレスの大阪府立体育会館に突如姿を現した剛はマスコミにその姿を発見されると「国際プロレスは辞めました。以後はフリーとして活動していきます」とフリー宣言。
これは馬場の預り知らないところで行われており、結果的にカムフラージュに全日本の会場を利用したことになりました。
この間、剛は水面下で新日本プロレスの関係者と接触していたのです。
剛は「国際プロレスにいたのでは収入が低く、自分には病気の家族もおり、養っていくことが出来ない」と待遇面の悪さを退団理由にあげていました。
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