ボブ・バックランドはミズーリ州ヘビー級王者であった76年10月8日にはセントルイス・キール・オーデトリアムで当時のNWA世界ヘビー級王者だったテリー・ファンクに挑戦。
1本目をフォール勝ちし2本目は60分時間切れで1-0で勝利しましたが「3本勝負の場合、2フォール奪わないと王座移動なし」というルール(83年6月8日、蔵前国技館でのリック・フレアーvs鶴田戦と同じパターン)で王座奪取成らず。
同年11月26日、同じキールでジャック・ブリスコに敗れ、ミズーリ州ヘビー級王座から転落し、登竜門は「卒業」、いよいよ次期NWA世界王者かと思われました。
バックランドを推していたのはサム・マソニック元NWA会長でしたが、テリーがホームではベビーフェイスであった為、次はヒールが良かろうとカンザスのボブ・ガイゲル、パット・オコーナーらがハーリー・レイスを推薦。
バックランドは顔がベビーフェイス過ぎてキューピーのようにお尻がぷっくりとしており、アウェイでヒールになって地元のベビーフェイスの挑戦者を迎え撃つのは厳しいものがありました。
レイスは77年2月6日、カナダ・トロント・メープルリーフガーデンにおいてテリーを14分40秒、フロント式インディアン・デスロックで破り王座獲得。
2度目の王座戴冠を果たしています。レイスは前回は57日間の短命王者に終わりましたが、抜群の安定ぶりで長期政権となっています。
何回か前に78年1月25日、フロリダ州マイアミビーチでレイスvsスーパースター・ビリー・グラハムによるNWA、WWWFのダブルタイトルマッチが行われたことを書きましたが、これをテストケースとしてNWAとWWWFが本格的に手を組んでいくことになります。
バックランドをWWWFヘビー級王者に推したのはビンス・マクマホン・シニア以外にマソニック、レイスvsグラハム戦を主催したフロリダのエディ・グラハムがおり、マソニックは「NWAが駄目ならWWWFで」と考えておりました。
バックランドのWWWFヘビー級王座戴冠は「バックトゥ・ザ・レスリングプロジェクト」(レスリングの原点に返れ)という、60年代のルー・テーズの時代をモチーフとした本格的レスリングに原点回帰を目指していました。
ですから、バックランドが王者になって初期の頃はテーズのようなクラシカルなロングガウンに白いタオルを首からかけたスタイルで入場していたのはその為です。
ニューヨークのWWWFはブルーノ・サンマルチノ、ペドロ・モラレスといったベビーフェイス王者が長期政権を築いており、ベビーの王者は集客には強く、活躍出来る土壌がありました。しかし、サンマルチノとモラレスは他地区への遠征は王者時代はほとんどありませんでした。
ビンス・シニアとマソニック、Eグラハムはバックランドをアメリカ東部地区だけにとどまらせず、ベビーフェイスの王者としてNWAの他のテリトリーに派遣し、いわばNWAの準世界王者として定期的に遠征させることを考えていました。
この辺りは、ビンス・シニアがNWAのメンバーであったことから、比較的歓迎されたプロジェクトでした。
ただNWAには派閥も多く、馬場に近いプロモーター達、いわゆる主流派はバックランドを敬遠、反主流派プロモーターの間で徐々に計画が実現していくことになります。
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