78年1月6日、川崎市体育館で新春黄金シリーズが開幕。
タイガー・ジェット・シン、ジェリー・ブラウン&バディ・ロバーツのハリウッド・ブロンドス、ベニー&ビリーのマクガイヤー・ブラザーズ、サイレント・マクニーの外国人選手が参加。
当初はガマ・シンが来日予定でしたがスケジュールの都合で来日不可能となりTJシンの推薦でカナダの聾唖者前座レスラー、マクニーが初来日。1月13日、岡山武道館から上田馬之助が外国人サイドで参戦。
シリーズ終盤戦の2月6日、盛岡・岩手県営体育館から最終戦の2月8日、日本武道館までWWWFヘビー級王者のスーパースター・ビリー・グラハムが特別参加。
注目すべきはWWWFとの提携開始4年にして現WWWF王者が初めて新日本プロレスに登場したことです。
グラハムは前77年4月30日、メリーランド州ボルチモアでブルーノ・サンマルチノを18分36秒、「両足をロープにかけた状態でのエビ固め」でカウント3を奪い王座獲得、第7代王者となりました。
イワン・コロフ、スタン・スタージャックと同様、ヒールのショートリリーフチャンプに終わるかと思いきや、5月29日、6月27日、8月1日と3度に亘るMSGでのサンマルチノとのリターンマッチを振り切って、意外にも長期政権を維持。
ヒール人気も定着しニューヨークの新しい顔となっていました。
サンマルチノは王者だった時代、ビンス・マクマホン・シニアに何度も新日本行きを打診されていましたが、これを拒絶。馬場への友情を貫き通しました。
馬場に32文ロケット砲をアドバイスしたとされるペドロ・モラレスも74年5月、全日本プロレスで行われたMSGシリーズに来日した際、もちろん社交辞令かと思われますが、ゴングのインタビューで「俺は馬場の団体以外に上がる気はない」とキッパリ答えていましたが76年4月には新日本のリングに登場。
いよいよ次はサンマルチノが新日本に来て猪木とWWWFの防衛戦を行うかとの周囲の予想通りにはいかず。
猪木を「三流レスラー」と酷評していたサンマルチノだけにプライドが許さなかったのでしょう。
しかし76年4月26日、MSGでスタン・ハンセンとの試合中に首の骨(第六頸椎)を折るというアクシデントを負ってしまいます。
サンマルチノはモハメド・アリvs猪木の試合に合わせて開催されたニューヨーク・センチュリー・シェアスタジアムでのビッグマッチ(米国時間76年6月25日)にまだまだ本調子ではなかったものの、
「チケット(前売)が売れていないから」という理由でビンス・シニアに説得され復帰、ハンセンを試合放棄で破りましたがその後も休息せず試合に出場。
ハンセン、ブルーザー・ブロディ、ニコリ・ボルコフ、スタージャック、ケン・パテラと防衛戦を重ねて来ましたが首の調子は戻らず。
WWWFヘビー級王者からの「退任」をビンス・シニアに申し入れ、これが受理されました。
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