77年10月28日、福生市民体育館で開幕した闘魂シリーズ第2弾のセミ前、ちょうどテレビ生中継が始まった頃、坂口vsゴールデン・ファルコン戦の試合中にグレート・アントニオが突如会場に姿を現し、観客席は大きなどよめきに包まれました。
アントニオは縞のシャツにズボンという私服姿で首には16年半前にギミックとして使用していたチェーンを下げての登場。観客席の後方で「ウォーッ!」と雄叫びをあげると試合には乱入せず、直ぐに引き上げています。
マネージャーにはディッパー・ゴードがついていました。
アントニオが引き上げた後も試合は滞りなく行われ、坂口が逆片エビ固めでファルコンを降しました。
セミファイナルは地元(福生近隣の青梅市出身)のストロング小林がナチスドイツギミックのベテラン、クルト・フォン・ストロハイムと対戦し老獪なストロハイムに苦戦の末、反則勝ち。
シリーズ最終戦12月8日、蔵前国技館ではストロハイムはパット・パターソンと組んで坂口、S小林組の北米タッグ王座に挑戦が決まっていました。
メインイベントは猪木、星野勘太郎組vsアンドレ・ザ・ジャイアント、スティーブ・ライト組。
1本目は星野がライトを体固め。2本目はアンドレがジャイアント・プレスで星野を体固め。
決勝の3本目はジャイアント・プレスを食らって失神した星野が戦意喪失し試合放棄、2-1でアンドレ、ライト組が勝っています。
アントニオがこのタイミングで何故新日本プロレスのリングに乱入したか?
これは確証ではないですが、プロレス誌77年9月号のモノクログラビアに1枚の写真が掲載されていました。
カナダのカルガリーで毎年夏に開催されているロデオのお祭り「スタンビート」に併せてプロモーターであるスチュ・ハートがビッグマッチを開催。
7月15日、スタンビート・ビクトリア・パビリオンで大会は開催され、メインイベントはハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座にアンドレが挑戦、試合はレイスが反則勝ちで辛くもアンドレを振り切って王座防衛を果たしています。
国際プロレスからマイティ井上が半年間の遠征に来ていました。M井上はこの年の3月26日、蔵前国技館での第6回IWAワールド・シリーズでBブロック並立首位になっており、この日の最終公式戦でジプシー・ジョーと対戦。
両者KOの引き分けとなりましたが出血多量によりM井上とジョーの2人が決勝進出を棄権。
Bブロックは次点だったマッドドッグ・バションが決勝に進出、Aブロックを全勝で予選通過していたラッシャー木村がバションを破り優勝しました。
失意のM井上は「一から出直したい」と吉原功社長に直訴、カナダ・カルガリーに遠征に出たという訳です。
この日M井上の対戦相手となったのはAWAからやって来た帝王バーン・ガニア。ガニアとM井上は国際のリングでAWAとIWAのダブルタイトルを賭けて対戦し1-1から両者リングアウトの引き分けとなっています。(74年11月21日、大阪府立体育会館)
その後はAWAと国際のルートが切れたことで両者は疎遠になっていましたが、カルガリーで2年8か月ぶりに対戦、試合は30分時間切れ引き分けとなりました。
そのカルガリー・スタンビートの会場にアントニオが久しぶりに公の場に姿を現し、M井上と国際のブッカーをしていた大剛鉄之助と3人で収まっている1枚の写真が同号に掲載されました。(同時期発売の別冊ゴングには記事なし)
おそらく、アントニオが数年ぶりにプロレスの仕事をする必要が出てきてカルガリーの会場に出向いたところ、大剛がいたので売り込みをかけたものと思われます。
大剛も、日本で知名度の高いアントニオが廉価で国際のリングに来てくれれば話題にもなるし、直線的パワー&ラフファイター相手には真価を発揮するラッシャー木村との金網デスマッチなら迫力満点の試合となることを考え、この時点でアントニオの国際行きはほぼ決まっていたかと思われます。
この写真を見た新日本プロレスがアントニオの横取りを画策、国際よりいい条件でオファーをかけたのではないでしょうか。
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