77年2月10日、日本武道館大会2大フェンスマッチ。リングサイドには白い鉄製の場外フェンスが設置されました。
ちなみに興行の途中から設置していた訳ではなく、第1試合の開始前から付けられていました。
第1試合ではジョージ高野がデビュー戦、そのルックスと褐色の鍛え抜かれたボディで早くからデビューが期待されており、当時は異例とも言える武道館という大舞台でのデビューとなりました。
佐山サトル(聡)と15分時間切れ引き分けと結果も破格でした。
前2月9日の横浜文化体育館まで試合に出場していた(小沢正志に勝ち)新日本旗揚げメンバーの柴田勝久(勝頼の父)がこの日よりレフェリーに転向。この日の前座試合を裁きました。
ストロング小林は腕の負傷から2月2日、大阪大会以降は欠場。よってカードに変更が生じ、セミ前は星野勘太郎、木戸修組vsスタン・ハンセン、ピート・ロバーツ組の45分3本勝負。
この試合、1本目は星野がロバーツを回転エビ固めで押さえましたが、2、3本目をハンセンが星野、木戸から1人でフォールを奪いハンセン、ロバーツ組が2-1で完勝しました。
約3年4か月のヨーロッパ、カナダでの海外修行を終えた吉田光雄が凱旋帰国、白のスーツ上下に身を包んでファンに挨拶。
吉田は72年ミュンヘン五輪にアマレス韓国代表として出場。専修大学を卒業する前の73年12月、新日本プロレスにスカウトされて入団を発表しました。
74年8月8日、日大講堂でエル・グレコ(後に新日本に来日するメキシコのオカマレスラーとは別人)と対戦し5分24秒、サソリ固めで勝利。
その後西ドイツを中心としたヨーロッパ、カナダのモントリオール一帯のマリタイム地区でミツ・ヨシダのリングネームで活躍。
カナダでは国際プロレスから修行に来ていた八木宏(剛竜馬)ともタッグを組みました。
これで新日本プロレスは猪木、坂口、ストロング小林に次いで吉田が第4の男のポジションになることが確実となっています。
セミの坂口と上田馬之助のシングルマッチ(60分1本勝負)。上田は大阪以降試合をしておらずこの日が新日本3戦目にて初の東京でした。
いきなり奇襲攻撃をかけた上田は坂口にチョーク攻撃、持っていた凶器でメッタ打ち。
怒った坂口がチョップ、パンチで反撃に出ると上田をロープに振ってのジャンピング・ニーアタック、これはやや斜めながらもヒット。
しかし上田は場外に転落するとそのまま場外フェンスを越えて控室に逃走、リングには戻らず、僅か3分24秒、試合放棄で坂口の勝ちが宣せられましたが勝った坂口も観客は収まりがつきません。
「連れ戻して試合をさせろ!」日本武道館は野次と怒号で殺伐たる雰囲気になりましたが上田は控室に籠ったまま出て来ず。
ある意味、メインイベントより注目を集めた坂口と上田の対戦は不完全燃焼に終わり観客のフラストレーションは爆発寸前。
そんな中、メインの猪木vsシンのNWF戦に突入していった訳です。
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