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2017年06月18日23:58

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ファンタジープロレスの巨匠桜井康雄さん追悼(64)

77年2月7日、一関市体育文化会館でのテレビ収録(最終戦の武道館大会の後2月25日に放送)では猪木、坂口組の黄金コンビがタイガー・ジェット・シン、スタン・ハンセン組というトップ外国人チームとメインで対戦しています。

1本目は日本組の反則勝ち、2本目はシンが羽交い絞めにした猪木にハンセンがウェスタン・ラリアット、ところが猪木がこれをかわしてシンに誤爆。

猪木がすかさず試合権利のあったシンをフォールして体固めでカウント3が入り2-0で日本組の勝利。

テレビ放送は後からとは言え、本番のタイトルマッチ3日前にシンがフォール負けしてしまいました。猪木が逆さ押さえ込みで取るか、上田馬之助が入って来ての反則勝ちあるいは前2月6日の久慈大会同様、猪木が逆さ押さえ込みでクイックによる丸め込みでハンセンから勝利というのが一般的に予想される結末かと思われました。

これはハンセンの素質を見抜いた新日本プロレスが「また来いよ!」というお墨付きを与えたものかと思います。

77年2月10日、日本武道館での新春黄金シリーズ最終戦、メインイベントの猪木vsシンのNWFヘビー級選手権試合と坂口vs上田のシングルマッチは日本初の「場外フェンスマッチ」として行われることになりました。

場外フェンスが新日本プロレスに初めてお目見えしたのは80年6月19日、高崎市体育館で開幕したサマー・ファイト・シリーズからというのが定説になっておりますが実際はこの武道館大会が最初です。

ただし、目的は大幅に違いました。80年の時は4月に引退した山本小鉄が審判部長となり、ルール改訂を主眼とし、故意に相手を場外フェンス越しに投げたら反則負け、同時にフェンスに出たら両者失格(両者フェンスアウト)というもので「場外乱闘からリングサイドの観客を守る為」という大義名分がありました。

しかし、実際はWWFとの提携強化により大物外国人が多数上がるようになった新日本プロレスのリングも、レスラーのマッチメークの都合上、不透明決着を容認せざるを得なくなり作成されたルールに基づいての改訂でした。

もう一つは猪木のワンマンエースだった新日本プロレスも78年に藤波が帰国してドラゴン・ブームを巻き起こし、スタン・ハンセンの台頭もあり、生中継が基本のワールドプロレスリングのCMを除いた正味45分ちょっとの放送時間内に3試合を入れなければならなくなり、試合試合を短縮する傾向が出てきた、ということです。

これは翌81年のタイガーマスク登場でその傾向はさらにはっきりしてきました。

ですが、この時の場外フェンス設置はシンと上田を逃がさないようにし、リング内で完全決着をつけさせるものと新日本側は説明していました。

東スポはこれを「新型金網デスマッチ」と報じましたが新日本が格下と思っている国際プロレスの二番煎じをする訳もなく、東スポもその辺りは理解した上で書いており試合が凄惨なものになるだろうという煽り記事でした。
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