77年1月7日、越谷市体育館から新春黄金シリーズが開幕。年末鳴りを潜めていた上田馬之助が再び行動を起こし始めました。
開幕戦のセミファイナル、翌週の1月14日、福岡九電記念体育館で行われる北米タッグ選手権試合の前哨戦、坂口、ストロング小林組vsタイガー・ジェット・シン、ブルータス・ムルンバ組の一戦。
1本目はS小林がブレーンバスターからムルンバを体固め。しかし2本目、私服姿の上田が試合に乱入、シンと合体を果たし坂口、S小林を徹底的に痛めつけました。
試合はノーコンテストとなり、シンと上田は共闘を宣言、福岡での北米タッグ戦はムルンバに代わってシン、上田組が挑戦することになりました。
おそらくシン、ムルンバ組というのはダミーカードであったと思います。
後に新間寿マネージャーはシン、上田組を「空前のヒット作」とその仕掛けを振り返っていますが外国人ヒールのトップと日本人ヒールのタッグチームというのは日本プロレス界の歴史において前例がなく、画期的発想と言えました。
猪木の対戦相手としてはピンでは役不足と判断された上田はシンと組むことで商品価値が上がり、シンも単独外国人エースとしては集客に陰りが見えて来ており、利害一致のタッグチームでした。
全日本プロレスのアブドーラ・ザ・ブッチャーは馬場、鶴田、ザ・デストロイヤーのみならず、ドリー・ファンク・ジュニア、ハーリー・レイス、ビル・ロビンソン、大木金太郎などあらゆるトップどころと抗争を展開、この年の暮れにはザ・シークとのタッグでドリーとテリーのザ・ファンクスとの世界オープン・タッグ選手権での遺恨試合が爆発的にヒットし、トップヒールのポジションを不動のものにしましたが、猪木のワンマンエース団体である新日本プロレスではそうはいかず、シンは猪木以外ライバルはおらず次第にマンネリ化していきました。
ちなみに猪木vsシンの東京の大会場におけるこれまでの主な興行成績は
��74年6月20日、蔵前国技館、NWF世界ヘビー級選手権試合(8800人)
��75年3月20日、蔵前国技館、NWF世界ヘビー級選手権試合、猪木が広島での王座決定戦で敗れそのリターンマッチ。(10500人満員)
��75年6月26日、蔵前国技館、NWF世界ヘビー級選手権試合、猪木タイトル奪回(10600人満員)
��76年8月5日、蔵前国技館、NWF世界ヘビー級選手権試合(8800人)
�い六笋離廛蹈譽慌饐貊藉兩錣瞭�でありますが、翌日の東スポには7500人と掲載されています。プロレス誌、ゴングに掲載されている「プロレス熱戦譜」で8800人に上方修正されています。
シリーズ最終戦の2月10日には日本武道館大会の開催を予定し猪木vsシンのNWFヘビー級選手権試合を行うことは発表済で今回は前年のウィリエム・ルスカのような起爆剤的なものはありません。
新日本プロレス側も異種格闘技戦以外の純然たるプロレスの試合だけでの武道館興行は初であり、少なくとも年1回は定着させたいところ。
ライバル団体の全日本プロレスは前年暮れのスーパー・パワー・シリーズにブッチャー、ロビンソン、ディック・マードック、ザ・スピリット(キラー・カール・コックス)、クリス・テーラー等豪華メンバーを投入した反動から同時期開催の新春ジャイアント・シリーズはマーク・ルーイン、キング・イヤウケアがエースで東京の大会場の興行はなし。
年末の仇を新春で討つ、といったところで何としても武道館を満員にしたいところでした。
このタイミングでのシン、上田組の出現はモハメド・アリ戦以来停滞していた新日本プロレスのリングを活性化させることに成功したと思います。
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