1921年(大正10年)3月5、6日の両日にかけて東京・九段の靖国神社相撲場で行われたアメリカ人プロレスラーアド・サンテル、ヘンリー・ウィーバーと日本人柔道家による日本初の異種格闘技戦。
プロレスのリングを設えて試合時間は20分を1ラウンドとする3ラウンド3本勝負。昭和時代や平成に入ってからの格闘技戦よりハードな試合時間となっていますが組技系の試合でありやむを得ず。
初日3月5日はサンテルは永田礼次郎三段との対戦。1本目は20分時間切れ。2本目はサンテルの首絞めが反則と取られサンテルの反則負け。
しかし、永田三段が負傷の為3本目を棄権。ルール上では1-1の引き分けとなりました。
サンテルの弟子にあたるウィーバーは増田宗太郎二段との対戦。1本目は増田が送り襟絞め、2本目はウィーバーがスリーパー・ホールドで返し1-1。
決勝の3本目は20分の制限時間をフルに闘って時間切れ引き分けとなりました。
2日目、サンテルは庄司彦男三段と対戦、20分3ラウンドをフルに闘い抜いて時間切れ引き分け。
ウィーバーと清水肇三段の対戦は1、2本目と清水三段が右腕への腕絡みを決めて2-0のストレート勝ちをしています。
他流試合はスコアの上では講道館柔道の勝利に終わりましたが、少なくともサンテル達を呼んだ勧進元(興行師、プロモーター)がおり、興行であったことは間違いないところです。
この他、この時代にはブラジルに渡った前田光世(コンデ・コマ)もアメリカに渡りプロレスラーと試合をしていますし、プロレスと柔道の対立の歴史は長く、そして深いです。
「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言われた鬼の柔道家、木村政彦も「プロ柔道」と言う名前で興行活動をしており、プロレスラーとしても54年2月19日、蔵前国技館で開催された日本初のプロレス国際試合に参加。(遠藤幸吉もプロ柔道出身)
その年の暮れ、12月22日、蔵前国技館で行われた昭和巌流島の決闘と言われた力道山との日本選手権試合も「プロレス対柔道」と喧伝されました。
実際に一連の出来事は小説や雑誌記事、漫画などで何通りもの解釈、表現がなされており、虚実ない交ぜ、と言ったところです。
富田常雄の長編連載小説で映画、テレビドラマ化されて多くの人々に親しまれた「姿三四郎」も「スパアラ」(スパーリングの意)としてラスリン(レスリング)との他流試合の模様がありますし、(78年に日本テレビ系列で放送された勝野洋版にも登場)ボクサーとの試合の描写もあります。
実際に柔道だけで大金を稼ぐのは難しく、プロレスラーと対戦してファイトマネーを得ていた柔道家が多数存在したのは確かです。
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