83年7月12日は札幌中島体育センター大会(観衆7800人超満員発表、テレビ収録)。テリー最後の北海道ツアーとあって多くのファンが詰めかけました。
メインイベントは馬場にタイガー・ジェット・シンが挑戦したPWFヘビー級選手権試合。これまで馬場とシンはPWF王座を賭けて2度対戦しています。
82年6月8日、蔵前国技館では7分11秒で馬場の反則勝ち、同年7月30日、川崎市体育館では7分21秒に両者リングアウトとなっており、いずれも短時間での不透明決着となっています。
馬場とシンはフレッド・アトキンスを共通の師匠に持つ兄弟弟子だったのはよく知られた話で、馬場がよく自伝本などで新日本プロレスの流れを組むレスラーについては、
「セオリーがない」と高い評価を決してしなかったのですが、シンも例外ではありませんでした。しかし、「アームドラッグの入り方は同じ」というところはちゃんと書いていました。
新日本から来たレスラーは内外問わず、一般的に試合のテンポが早く、矢継ぎ早に動く傾向が強い選手が多いのでそれを全体を評してセオリーがないということになるのでしょう。
さて、試合はシンが凶器であるフォークを持ち出して馬場を攻撃、馬場は河津落としでシンを倒してフォークを奪うと反撃、場外に逃げるシン。
馬場はこれを追って場外へ。レフェリーのジョー樋口の静止も聞かず観客席の奥深くまで入り込み果てしなく場外乱闘が続き、樋口はゴングを要請、9分27秒、ノーコンテストとなりました。内容は過去2回のPWF戦と同じく凡戦でした。
実際のところ、この時代の全日本プロレスは両者リングアウト、両者反則、ノーコンテストの判別が不可能な結末が多かったです。
ノーコンテストの為、この試合は防衛記録にカウントされず…。でしたが、かなり後になって後付けで記録に加算されていました。
これが何でわかったかと言うと2年後の85年7月30日、福岡スポーツセンターで馬場はスタン・ハンセンのエプロン越しのバックドロップにフォール負けし、PWF王座から転落、以後タイトル戦線から撤退しますが、
その際、直前の防衛戦となった同年6月21日、日本武道館でのラッシャー木村戦まで通算60回の防衛を果たしてハンセンにベルトを明け渡した、との記述が本に書いてありました。
馬場は60回通算防衛をしたことで名誉ある撤退をした訳で60というキリ番にはこだわっていたのかと考えます。
私はそこで記録を調べて見ることにしたのです。
初代(73年3月PWF発足時〜78年6月1日、秋田市立体育館でキラー・トーア・カマタに反則負けで転落まで)の38回防衛はあまりに知られているので詳細は割愛します。
第5代(79年2月10日イリノイ州シカゴ・インターナショナル・アンフィシアターでアブドーラ・ザ・ブッチャーを破り獲得〜82年10月26日帯広市総合体育館でハーリー・レイスに敗れ転落まで)が、
ブッチャー、ブルーザー・ブロディ、カマタ、スーパー・デストロイヤーマークII(サージェント・スローター)、ビル・ロビンソン、バーン・ガニア、キラー・カール・コックス、カマタ、ブロディ、ハンセン、テリー・ゴディ、ハンセン、シン、シン、ハンセンで15回。
第7代(83年2月10日ミズーリ州セントルイス・チェッカードームでレイスを破り獲得、同年9月8日、千葉公園体育館でハンセンに敗れ転落迄)がレイス、ブロディ、キングコング・バンディの3回。
第9代(84年7月31日蔵前国技館でハンセンから奪回、85年7月30日福岡でハンセンに敗れ転落迄)がシン、ハンセン、R木村の3回。
これでは合計59回でありこの札幌でのシン戦を入れないと60回にならないことになります。59と60ではえらい違いです。
なので、馬場がハンセンに最後に敗れてタイトル戦線から撤退することが決まった時に、シン戦を辻褄合わせで「追認」したと思われます。
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