サバンナでの試合を終えた全日本プロレス勢は鉄の爪フリッツ・フォン・エリックの興行地盤であるテキサスに移動。
83年6月15日にはテキサス州コーパスクリスティー・メモリアル・コロシアムの大会に出場。
鶴田はここで、超ベテランの老雄と言っていい、ホセ・ロザリオの挑戦を受けてUNヘビー級王座防衛戦を行っています。
ロザリオは34年メキシコシティ出身、ミル・マスカラス、チャボ・ゲレロと同様にアメリカを主戦場とする軽量級のメキシカン。
テキサス、フロリダ、サンフランシスコの西海岸等で活躍し69年からダラスに定着。72年3月には弟のサルバトーレ・ロザリオと一緒に日本プロレスの第14回ワールド・リーグ戦に初来日しています。
上田馬之助、グレート小鹿、星野勘太郎から勝ち星を挙げ、日プロ3番手の大木金太郎と引き分ける等期待通りの活躍を見せましたが膝の負傷により途中帰国しています。
その後再来日のチャンスはなく、エリック一家のポリスマンとして外敵を最初に迎撃するポジションを務める傍ら、コーチとしても手腕を発揮。
ジノ・ヘルナンデス、ショーン・マイケルズらを育成しています。
そのような事情からロザリオを鶴田の挑戦者としてフリッツが指名したのもわからなくはないですが、178cm、110kgと小柄な体躯で年齢も既に49歳となっており、王座奪取出来るかどうかは試合前からわかりそうなものでした。
試合は鶴田が延髄斬り、ジャンピング・ニーパットでダウンしたロザリオを引き起こすと5月26日、天竜市立総合体育館でのブルーザー・ブロディ戦以来の卍固め。
196cm、125kgの巨体で手足の長い鶴田の繰り出す卍固めは写真で見る限り説得力抜群でロザリオは堪らずギブアップ。9分36秒、鶴田が前々回のアレックス・スミルノフ(4月11日広島県立体育館)、前回のニコリ・ボルコフ(5月19日赤穂市総合体育館)戦に続き、10分以内で5度目のタイトル防衛に成功し、その強さを満点下に示しました。
これは何を意味するか?、つまり、もう3番手ベルトの位置付けにあるUNヘビー級は「卒業」、1ランク上の師匠・馬場の日本プロレス時代の代名詞であるインターナショナル・ヘビー級ベルトに照準を定めた、という意思の現れと考えます。
この時期のフリッツ主宰のワールド・クラス・レスリング(旧ビッグタイム・レスリング)ではエリック兄弟vsテリー・ゴディ、マイケル・ヘイズにプレーイング・マネージャーであるバディ・ロバーツを加えたザ・ファビュラス・フリーバーズの抗争が中心となっていました。
父フリッツが引退試合でキングコング・バンディを破って獲得し、試合後返上されたアメリカン・ヘビー級王座は長男(戸籍上は次男)のケビン・フォン・エリックが保持しており、この日はヘイズを回転エビ固めで破って王座防衛。
4月に初来日した三男(四男)ケリーはゴディとの「アイ・クィット・マッチ」で対戦。この試合はフォール決着はなく、技を決められた相手に馬乗りになってマイクを口に押し付けて先に「アイ・クィット」(参った)と言わせた方が勝ち、という日本ではあまり馴染みのないルールでした。
この日はケリーがゴディのコメカミにタイガークローをガッチリと決めてマイクを押し付け「アイ・クィット」と言わせて勝利を飾りました。
ちょうどこの時テキサスには新日本プロレスの谷津嘉章が修行に来ていました。
80年10月23日、モスクワ五輪幻のレスリング日本代表(アメリカを初めとした先進国が参加をボイコット)として新日本プロレスに入団した谷津は、野毛道場の洗礼を受けることなく渡米、WWFでパット・パターソンのコーチを受けて同年12月29日、破格のニューヨーク・MSGでカルロス・ホセ・エストラーダを相手にデビュー戦を行い、ワンダー・スープレックスで快勝しました。
その後もWWFで試合を行い81年6月24日、蔵前国技館で国内デビュー、猪木をパートナーにスタン・ハンセン、アブドーラ・ザ・ブッチャー組と対戦。なぶり殺しに近い位やられまくり惨敗。
これがトラウマとなったか同年11月の第2回MSGタッグ・リーグ戦に長州とのタッグ(こちらも五輪コンビではある)で出場もパッとせず。
82年6月に新日本に参戦したヒロ・マツダから再教育を受けて、同年サマー・ファイト・シリーズ第2弾終了後、アメリカ修行に再出発。
フロリダを経てテキサス入り、トラ・ヤツのリングのリングネームで試合をしていました。
ここでは新日本所属、五輪選抜選手の肩書きは通じず、ジョバー扱いでこの日はアーマン・ハッサンとのコンビでキマラ(カマラとも発音、ジャイアント・キマラ1号の方)と1対2のハンディキャップマッチで対戦、ハッサンがキマラのフライング・ボディプレスに圧殺されています。
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