藤原喜明、高田伸彦のUWF移籍会見の席上、高田は「正直言って、札幌(7月20日)のダイマイト・キッド戦はやってみたかったです。でも長い目で見てこちらにお世話になろうと思ったんです。藤原さんが動いたことが決定的な要因ですね。自分は藤原さんについてまいりました。藤原さんの鬼のシゴキに耐え抜き、前田さんを見習い、新生UWFのイメージに添える真に戦うレスラーとなるべく精進して参ります。」とコメントしています。
会見の席上に前田日明、浦田昇社長も出席、スーツの上からUWFのジャージを羽織った藤原と高田は前田、浦田社長とガッチリ握手してマスコミの撮影に応えました。
さらに翌6月28日にも記者会見が連続して行われ、タイガージムのザ・タイガー(佐山聡)と新日本プロレスを2月に退団して同ジムのインストラクターをしていた山崎一夫が、タイガージム所属としてUWFのリングに参戦することが発表されています。
UWFは7月23、24日に後楽園ホールで無限大記念日と銘打った2DAYSの興行開催を発表していましたが、この大会には前田、タイガー、藤原、高田、山崎にラッシャー木村、剛竜馬、マッハ隼人と8人の日本人選手が参戦することになり、チケットは2日間とも爆発的な売れ行きを見せました。
8人いれば、シリーズが組める。UWFでは8月29日、高崎市体育館から9月11日、後楽園ホールまでの2週間、「ビクトリー・ウィークス」と題してシリーズ第2弾を開催することを発表しました。
僅か1か月前には、団体存続不可能と判断され、新日本プロレスへの吸収合併話が持ち上がっていたUWFは完全に息を吹き返した訳です。
新日本プロレスの野毛道場の強さの象徴であった藤原、次代を担う次期スターとして期待の高かった高田の退団は新日本の求心力を大いに低下させる結果になりました。
伊佐早敏男企画宣伝部長は「新日本プロレスのサマー・ファイト・シリーズ(6月29日後楽園ホール〜8月2日蔵前国技館)が終わったら、さらに何かが起きる。」と更なる離脱者が現れることを暗に示すような発言をしています。
6月30日には、第1回となる新人入門テストが行われ、中野龍雄(当時19歳)、広松智(当時22歳)他全8名が合格。世田谷にあった第一自動車運送の後援を得て、用賀に道場と合宿所も借りることが出来ました。
中野は81年に崩壊寸前の国際プロレスに入門テストを受けた経緯があり身体も出来ていました。
ザ・タイガーのUWF参戦の際、タイガージム会長であったショウジ・コンチャは条件として「新間の排除」を呈示しており、新間が猪木を連れて来ることが出来ず、引責辞任のような形でプロレス界から去ったのをいいことに、コンチャはUWFにタイガーの売込みをかけました。
その前にはタイガーを馬場の全日本プロレスに売込んでいましたが、金額を高くふっかけていました。
馬場は「あれだけの技量の持ち主だから」と一度は獲得に向けて動いたようですが、コンチャの胡散臭さを見抜いたか、提携発表する前から水面下で新日本プロレス興行社長の大塚直樹に相談していました。
大塚は「佐山は確かに有能な人材ですが、その値段ならやめた方がいいです。それなら自分達で新しいタイガーマスクを作りましょう。」とアドバイスしています。
結果、馬場はタイガー獲得は見送り、メキシコ遠征中でカミカゼ・ミサワのリングネームでルード修行をしていた三沢光晴に国際電話をかけ「お前、コーナーポストの上飛び乗れるか?」 という打診をしたのは有名なエピソードです。
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