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2016年02月28日22:04

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ジャンボ鶴田怪物伝説(239)

80年ジャイアント・シリーズの10月13日、愛知県体育館で鶴田はアブドーラ・ザ・ブッチャーの挑戦を受けUNヘビー級王座の防衛戦を行いましたが1-1からブッチャーの新兵器である山嵐(バックフリップ)にフォール負けを喫し王座転落しています。

ブッチャーはこれでUSヘビー級(75年)、PWFヘビー級(78年)、インターナショナル・タッグ(79年)、UNと休眠状態のアジア・ヘビー級と中堅選手用ベルトになっていたアジア・タッグを除いて全日本の管理するベルトを総なめにしました。

合わせて76、79年のチャンピオン・カーニバル優勝もあり、獲ってないのは暮れの世界最強タッグ決定リーグ戦の優勝位でした。

ブッチャーの王座獲得は全て10月のジャイアント・シリーズになっているのも興味深いですが、これで全日本ではほとんどの仕事はやり尽くした感もあり、マンネリ化して来たのは否めません。

ブッチャーはこの年あたりから、「クリッとした目が可愛い」などと女性ファンから言われるようになったとかでベビーフェイス的人気が高まっています。

ブッチャーをモデルとした漫画「愛しのボッチャー」(河口仁)が人気を博し、サントリーの清涼飲料水フルーツレモンのCMにも額の傷をメイクで隠して出演。

お茶の間の人気者になってしまいました。このCMは競演していた女性タレントの景山真澄が大麻不法所持で逮捕されて打ち切りになっており、リング上のヒールより女性タレントの方が私生活では悪かった、という洒落にならない結末になりました。

日本テレビの全日本プロレス中継の実況を担当していた倉持隆夫、松永二三男の両アナウンサーが歌うブッチャー讃歌「ブッチャー・ザ・グレイテスト」(カップリングはブッチャーの肉声入りの「ザ・ブッチャー」)が全日本のテーマ曲集を発売しているテイチクレコードから発売されるなどリング外でも話題を集めていましたがヒールとしての凄味は薄れ、翌81年に新天地を求めて新日本プロレスへ移籍というのも必然の流れだったのかも知れません。

10月20日にはテリー・ファンクが来日、弟分だったディック・マードックと共に記者会見に臨んだテリーは、

「膝が限界に来ている。3年後の83年6月30日、自分の39歳の誕生日に日本のリングで引退試合を行いたい」と引退宣言。(テリーは44年6月30日、インディアナ州ハモンド出身、当時はテキサス出身とされていた)

これでやや下火になっていたテリー人気が再燃し、因縁のブッチャーのUNヘビー級王座に挑戦した11月1日、横浜文化体育館は7500人(超満員)の大観衆が詰めかけました。

試合は1-1から両者反則の引き分けでブッチャーが初防衛に成功。

翌日の11月2日は後楽園ホールで馬場、鶴田組にブッチャー、キラー・トーア・カマタ組が挑戦したインターナショナル・タッグ選手権試合が行われ1-1から反則勝ちで馬場、鶴田組が王座防衛。師弟コンビはこのシリーズ10月17日、盛岡・岩手県営体育館でのビル・ロビンソン、ワフー・マクダニエル組を破ったのに次いでインター・タッグ王座は連続防衛に成功しました。

11月4日、松本市総合体育館で鶴田はブッチャーのUNヘビー級王座にリターンマッチを挑みましたが1-1から両者リングアウトに逃げられ、王座奪回成らず、シングル無冠のまま越年を迎えることが決定してしまいました。

80年世界最強タッグ決定リーグ戦は11月28日、後楽園ホールで開幕、前年最終戦でのブッチャーとザ・シークの仲間割れにより77年の世界オープン・タッグ選手権から3年連続だったザ・ファンクス、馬場、鶴田組、ブッチャー、シーク組の3強の図式が崩れました。

ブッチャーはカマタと、シークは初来日のグレート・メフィストと組んでエントリー。カマタはそこそこでしたが、メフィストは当時全米に何人かいたアラビアン・ギミックのシークのコピーレスラーの1人に過ぎず、実力的には最強タッグに参加出来る資格はなかったです。

この年新日本プロレスが同時期にMSGタッグ・リーグ戦をぶつけて来てタッグ・リーグ戦の興行戦争と化していました。

そんな中、初来日のリッキー・スティムボートが日本でも人気の高いディック・スレーターとのタッグで参戦し、リーグ戦に新風を吹き込みました。

リッキーと10月に新日本に来日したポール・オーンドーフは80年代を象徴する若きフレッシュな未だ見ぬ強豪として全日本と新日本が水面下で奪い合いをしていました。

オーンドーフはヒロ・マツダのラインから新日本が、リッキーはノースカロライナのジム・クロケット・ジュニアがブッキング権を持っており全日本が獲得しています。

この年の秋からドリー・ファンク・ジュニアがフロリダでブッカーを始めた為、新日本プロレスとエディ・グラハムの関係は疎遠になっていきます。

CWF(チャンピオンシップ・レスリング・フロリダ)の共同オーナーであるマツダは新日本のエージェントの仕事は続けていましたが、CWFは全日本とも商売を再開。

その関係から最強タッグには明治大学レスリング部出身でマサ齋藤、高千穂明久のマネージャーをしていたタイガー服部(服部正男)が外国人係兼レフェリーとして参加。

意外と思われる方も多いかと思いますが服部のレフェリー日本デビューは全日本のリングでした。
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