80年スーパー・パワー・シリーズ前半戦にはNWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイスが登場。
この時は馬場の挑戦はなく、5月27日、秋田市立体育館でタイガー戸口が挑戦して2-1でレイスが勝利。
鶴田は翌5月28日、札幌中島体育センターでレイスに挑戦、1-1から60分時間切れ引き分け。2本目に鶴田がフィニッシュに使ったジャーマンはこれが最後の使用になりました。
6月7日、一関市体育文化会館で鶴田は1月に次いでビル・ロビンソンとUNヘビー級王座防衛戦を行い1-1から両者リングアウトの引き分けで初防衛。この試合はノーテレビで、テレビ収録のあったシリーズ最終戦の6月12日、岐阜市民センターではロビンソンとノンタイトルの30分1本勝負で対戦し時間切れ引き分け。
ロビンソンにはなかなか勝つことが出来ませんでした。
シリーズ終了後、馬場と共に渡米した鶴田は6月22日、AWAの本拠地であるミネソタ州ミネアポリス・オーデトリアムでAWA世界ヘビー級王者ニック・ボックウィンクルに1年4か月ぶり2度目の挑戦。
王者を圧倒しながらも20分5秒、反則勝ちでベルトは奪えませんでした。
馬場は同日、スーパー・デストロイヤー・マークII(サージェント・スローター)を16文キックで降しPWFヘビー級王座を防衛。
全日本プロレスとAWAは75年に国際プロレスがAWAと取引解消した後、提携開始。
12月のオープン選手権にバロン・フォン・ラシク、ホースト・ホフマンが参加、翌76年1月にはレイ・スチーブンス、ディック・ザ・ブルーザー、クラッシャー・リソワスキーが、2月にワフー・マクダニエルが来た同じシリーズの3月にはオーナーであるバーン・ガニアが自ら全日本初参戦。
NWAに次いで、AWAも馬場が占領するかと思われました。
クリス・テーラーやケン・パテラも全日本に来日し、78年の世界最強タッグ決定リーグ戦には世界王者のニックがブラックジャック・ランザをパートナーに初の全日本登場となり、79年2月にはイリノイ州シカゴ・インターナショナルアンフィシアターのビッグマッチに馬場、鶴田、天龍が参戦。
2月14日ハワイのエド・フランシス、ロード・ブレアースPWF会長の興行で鶴田がニックのAWA世界ヘビー級王座に挑戦と順調にビジネスをして来ました。
しかし、ザ・ファンクスがブッカーとして幅を利かせていた全日本でガニアが美味しい商売が出来るはずもなく、馬場もガニアのシビアな商売で国際プロレスの吉原社長が苦労させられているのを目の当たりにしていましたので、AWAとの取引シェアを増やすようなことはしませんでした。
それもあってか、AWA世界王者ニックは79年10月、80年3月の2度、国際のリングに登場、オーナーのガニアも79年11月に5年ぶりに国際に参加するなど全日本とはやや疎遠になりました。
今回の馬場の渡米目的はAWAとの関係再構築と、4月25日、高知県民体育館でのザ・シーク戦で60年9月30日、日本プロレス台東体育館における桂浜(田中米太郎)戦とのデビュー戦以来国内3000試合連続出場を達成しており、(国内で組まれた試合の意)その記念試合の相手としてガニアに白羽の矢を立てて招聘に向けての交渉だったかと思われます。
馬場、鶴田は6月28日、ミシガン州デトロイトのザ・シーク(エドワード・ファーファット)の興行に出場、デトロイト版最強タッグと言われたワンナイト・タッグ・トーナメントに出場しています。
ドリー・ファンク・ジュニア、フレッド・カリー組、アブドーラ・ザ・ブッチャー、アーニー・ラッド組、シーク、キラー・ブルックス組(74年11月シーク新日本来日時にブルックスがシークのいない間に新団体を旗揚げ、その後和解)等ローカルテリトリーのプロモーターとしては豪華なメンバーが集まりました。
馬場が、暮れにこれ以上の豪華なメンバーを日本に呼んで、2週間ものリーグ戦を組めるのは日本の民放がスポンサードしていたからで、日本のマーケット事情が特殊であったからです。
馬場、鶴田組は決勝に進出、決勝に出て来たのはデトロイト地区世界タッグ王者チームであるランディ・スコット、ジョン・ボネロ組という無名チームでした。
馬場、鶴田組の相手ではなく、僅か7分40秒、鶴田がボネロをジャンピング・ニーパットから体固めで破り優勝。世界タッグ王座のベルトを獲得しています。
ですが、デトロイトで防衛戦が行えないという理由で王座は即日返上。シークからすれば、日本で馬場に高額なギャラを貰った見返りに馬場、鶴田を呼んで優勝させたと思われ、突然出てきた王者チームはジョバーのダミーチャンプかと推測します。
6月29日、カナダ・オンタリオ州トロント・メープルリーフガーデンではブルーザー・ブロディ、スコット・アーウィン組を2-0で破りインターナショナル・タッグ王座を防衛しています。
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