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2015年08月21日22:34

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ジャンボ鶴田怪物伝説(201)

フロリダのCWFの共同オーナーでもあったヒロ・マツダは新日本プロレスとエディ・グラハムが疎遠となってしまった後も個人的に新日本のエージェントの仕事は続けていました。

そんな中、引き抜き抗争勃発の余波を受け、新日本の管理下にあったNWAインターナショナル・ジュニア・ヘビー級王座は、時の王者チャボ・ゲレロがベルトを持ったまま全日本に移籍するという前代未聞の展開になりました。

元々、プロレスは大男同士のぶつかり合いにこそ醍醐味があると信じて疑わなかった馬場はジュニア・ヘビー級自体にあまり感心がありませんでしたが、新日本での藤波、タイガーマスク人気を目の当たりに見せつけられてはプロモーターとして時代の要請を受け入れられずにはいられなくなりました。

前年81年8月にチャボが王者として全日本に来た時に挑戦したのはドスカラスであり、この時全日本所属の日本人選手にジュニア・ヘビー級でベルトに挑戦出来る人材はおらず。

馬場は今回のアメリカ遠征で80年にアメリカ、プエルトリコ修行に出ていた大仁田厚をチャボへの挑戦者に抜擢しています。

アメリカでは反日感情が当時でも残っていたテネシー州を渕正信と共にヒールとしてサーキットしていた大仁田でしたがチャボへの挑戦が決まると髪の毛を伸ばし髭を剃ってベビーフェイス仕様に変身しています。

後日、渕が語ったところによると、馬場がテリー・ファンクに「チャボのベルトに挑戦させる(=チャンピオンになる)のは大仁田と渕のどっちがいい?」と聞いたところ、テリーが自分に似たタイプの大仁田を推薦した、とのことです。

大仁田は派手なテリータイプ、年齢のわりに地味で老成したレスリングをする渕はドリータイプと言えるでしょう。

渕はフロリダにいた時に全日本では珍しくフロリダ州オデッサにあったカール・ゴッチの元を訪ね、ゴッチの指導を受けていました。

82年頃の話と言うから丁度この時期の話かと思いますが、ゴッチが渕を通じて全日本に売り込みをかけて来たという話がありました。

この年の元日、新日本のリングに選手としては74年8月以来7年半ぶりに上がったゴッチは後楽園ホールで藤原をジャーマンで破り、1月8日、同所でも木戸修をジャーマンで降し、57歳ながら元気なファイトを見せたゴッチでしたが、新日本とWWFのパイプ強化により外国人ブッカーは勿論、立会人としても呼ばれる機会は激減しておりました。

82年1月以前に新日本にゴッチが呼ばれたのは76年11月、2月6日に日本武道館で猪木に敗れたウィリエム・ルスカが12月9日、蔵前国技館での猪木との再戦を前に、ゴッチに弟子入りするというアングルが組まれています。

ゴッチは猪木vsルスカの再戦の立会人としてリングに上がり、この一戦の勝者に自分が保持していた実力世界一の「世界ヘビー級チャンピオンベルト」を寄贈するとアピール。

だが試合は猪木のワンサイドゲームに終わりベルトは猪木に贈られました。

虎の子のベルトを手放してしまったゴッチは新日本のストロングスタイルの象徴ながら新日本から声がかからなくなりました。81年には新日本と全日本の引き抜き抗争が勃発。

これをゴッチがただで見ている訳もなく、「ニュージャパンに行ったのはミステークだった。ババにオールジャパンに行きたいと伝えてくれ」と渕を通じて馬場に全日本行きを打診。

馬場も一時は参加の方向で検討していたようですが、結果的には、馬場の返事は「NO」でした。

もしこの時にゴッチが全日本に呼ばれて行っていたらどうなっていたか?興味は尽きないですね。
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