03年11月1日プロレスリング・ノア日本武道館(観衆16,000人超満員発表)大会、この時は3連休でノアの土曜日日本武道館大会が初日でした。
翌11月2日日曜日みちのくプロレスが有明コロシアムで10周年記念大会〜最終章〜「メモリー」を開催、4年前に袂を分かつことになったザ・グレート・サスケvsスペル・デルフィンの再会マッチ(デルフィンの勝利)で観衆8,008人超満員発表を動員。
最終日の11月3日新日本プロレス横浜アリーナ大会で「YOKOHAMA DEAD OUT〜死線を越えた闘い〜」を開催、高山善廣のIWGPヘビー級王座にこの年のG1クライマックス覇者天山広吉が挑戦した一戦がメインイベント(天山の勝ち)で12,500人満員発表。
私はこの3大会全て会場観戦しましたが、観客の密度という点ではノアが他の2つを圧倒しており、客観的に見てノアが一人勝ちしたと思います。
ノア日本武道館大会メインイベントは小橋建太に元同王者小川良成が挑戦。直線的なファイトの小橋に透かすような細かい緻密なテクニックを誇る小川、対照的なファイトスタイルの両者。
小川は小橋のウィークポイントである膝を集中攻撃、小橋は久しぶりのローリング・クレイドルで反撃、ヒールテイストの試合運びを見せる小川は徹底した膝殺しから、本部席にあったゴングを持ち出して小橋の顔面を殴打しました。
これに激怒した小橋は小川の額を場外の鉄柱に叩きつけて流血させ、ローリング袈裟斬りチョップから割れた額にナックルを叩き込む、パワーボムからのジャックナイフ式エビ固め、さらにハーフネルソンスープレックス狙い、だが小川はこれをすかして丸め込み。これはカウント2で返す。
小川は続けて飛びつき式腕ひしぎ逆十字固め、しかしこれを小橋は強引に力で外す、明らかに理に適ってない自分の腕にダメージがかかりそうな外し方、小川に剛腕ラリアット炸裂、倒れた小川の頭髪を掴んで引き起こすともう一発剛腕ラリアット、29分51秒、小川の変則的な攻撃に苦戦しましたが、体固めでフォール勝ち、5度目の防衛を果たしました。
この日、長州力と共に新日本プロレスからWJに移籍し、退団した越中詩郎がノアのリングに登場、19年ぶりにリングで三沢光晴と再会。
三沢と越中は全日本プロレス時代の84年3月、一緒にメキシコに遠征、NWA系のEMLLに登場、三沢はカミカゼ・ミサワ、越中はサムライ・シローとしてルードとして活躍していましたが、三沢が2代目タイガーマスクに指名され、7月に単独で帰国。
一人残された越中に翌85年1月、84年の選手大量離脱で日本人選手不足に陥った新日本プロレスの坂口征二副社長がメキシコに現れて移籍を打診、3月にロサンゼルスで口説き落として越中は移籍を決意。
8月に新日本プロレスのリングに登場、後戻りできない精神力の強さで86年2月6日両国国技館でザ・コブラを破り、初代IWGPジュニア・ヘビー級王者となりました。新日本プロレスのリングに戻ってきたUWFの高田延彦との抗争で人気に火がつき外様ながら新日ジュニアで確固たるポジションを確立。
ヘビー級転向後は反体制ユニット反選手会同盟のエースとして本隊に立ち向かい、メンバーも増えて「平成維震軍」に改名、95年には自主興行シリーズを開催、99年に解散後は長州の側近として本隊の重鎮として活躍していました。
両者の19年ぶりの対戦は12月6日横浜文化体育館(観衆4,500人超満員発表)で行われ、越中が三沢戦用に編み出した侍ドライバー’84を繰り出しましたが決まらず、最後はエメラルド・フロウジョンからの体固めで三沢がフォール勝ちを収めています。
一方、ノアの至宝であったGHCタッグ王座が新日本プロレスの手に渡りました。11月30日札幌・北海道立総合体育センターきたえーる(観衆4,800人発表)で新日本の永田裕志&棚橋弘至組が小橋&本田多聞組に挑戦、バックドロップホールドで永田が本田にフォール勝ちし永田&棚橋組が新王者になりました。
永田&棚橋組はこの日の横浜文化体育館で森嶋猛&力皇猛組のWILD�兇猟�戦を受け永田がナガタロック�靴鮨硬茲坊茲瓠⊃硬茲魯�ブアップしませんでしたがレフェリーストップとなり、永田&棚橋組が王座初防衛に成功、ノアはタッグベルトを新日本プロレスに流失させたまま越年となった訳です。
12月24日ディファ有明でのクリスマス興行で、来年(04年)7月10日東京ドームに初進出することを発表、館内は大歓声に包まれました。
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