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2025年06月25日07:20

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【特別編】前田日明のYouTubeにおける問題提起について(73)

フォト

04年7月10日のプロレスリング・ノア東京ドーム大会では忘れてはいけない出来事がありました。前03年3月1日日本武道館大会での第1試合、百田光雄とのタッグで永源遙&川畑輝鎮組と対戦(百田が逆さ押さえ込みで川畑を破る)した試合を最後に長期欠場していたラッシャー木村(当時63歳)の姿がオーロラビジョンに映し出されました。

木村は体調の悪化と「これ以上関係者に迷惑をかけられない」との理由でビデオにて引退を表明、長年ファンに愛されてきたマイクを置いた映像は終わっています。

木村は本名木村政雄、1941年6月30日北海道中川町出身、大相撲の宮城野部屋に入門後、65年に日本プロレス入り、66年猪木と豊登によって旗揚げされた東京プロレスに移籍、東京プロレスは経営不振から同年一杯で単独興行を打てなくなり、67年1月からは前66年に日本プロレスを退職した吉原功と在米フリーのヒロ・マツダが中心になって設立された国際プロレスとの合同興行で生き長らえました。

しかし合同興行は猪木と吉原の対立で僅か1シリーズだけで分裂、東京プロレスは解散となり猪木は柴田勝久、北沢幹之(魁勝司)、東プロでデビューした永源と共に日本プロレス復帰。

それ以外のレスラーはフリーで渡米した齋藤昌典(マサ)を除いて国際プロレスに合流、木村もその中の一人でしたが、レスラーとしてやっていく自信がなく、一旦北海道へ帰ってしまいました。

吉原代表が木村を説得して国際プロレスに戻し、68年TBS体制になってから戦列復帰。アメリカ遠征、欧州遠征を経てメインイベンターに成長、ヨーロッパタッグ王座、IWA世界タッグ王座を獲得。

70年10月8日には大阪府立体育会館でドクター・デス(ムース・モロウスキー)を相手に日本初の金網デスマッチを行い、KO勝ち。金網デスマッチは生涯、無敗で「金網の鬼」の異名で呼ばれました。

一方で同年12月12日台東体育館でのオックス・ベーカーとの金網デスマッチで勝ったものの足を骨折してしまい、無理して復帰したこともあり上半身に比べて下半身が細くウィークポイントとして対戦相手に狙われることになります。

75年4月19日札幌中島スポーツセンターでマッドドッグ・バションを金網デスマッチで破り、IWA世界ヘビー級王座を獲得。団体のエースとなり、数度の短期での王座陥落はありましたが団体崩壊まで国際プロレスのエースの座に君臨しました。

81年8月9日北海道・羅臼町民グラウンドで国際プロレスは興行活動を停止、法人は清算へ。

木村とアニマル浜口、寺西勇の3選手は「新国際軍団」として新日本プロレスのリングに登場、9月23日田園コロシアムでは敵陣に乗り込んで来た木村がテレビ朝日の保坂正紀アナウンサーにマイクを向けられ「こんばんは」と発言したことを揶揄されましたが、これが後に「マイクパフォーマンスの鬼」としてバラエティー番組で採り上げられ、木村の新しい魅力を引き出すのにつながりますから世の中の何が幸いするか分からないものです。

新日本プロレスでは猪木の敵役としてヒールとして活躍、83年2月11日放送の「ワールドプロレスリング」では2度目の猪木vs国際軍団の1対3変則マッチ(2月7日蔵前国技館からの録画中継、最後は浜口がフェンスアウトの反則で勝つ)は視聴率25.9%という視聴率を上げました。

国際軍団は浜口の維新軍加入で解体され、木村は翌84年にはUWFへ移籍、旗揚げメンバーとして前田日明を支える重鎮の役割を果たし、また剛竜馬と共にカナダに渡り、国際プロレス時代の伝手を頼ってモントリオールルートから外国人レスラーのブッキングも行なってきましたが、藤原喜明、スーパー・タイガー、高田伸彦、山崎一夫が加入してくると「プロレスに対する方向性の違い」を理由に同年10月5日UWFを退団。

同年11月22日松戸市運動公園体育館で行われた全日本プロレス「世界最強タッグ決定リーグ戦」開幕戦に姿を現し、馬場が「ミステリアスパートナー」としていたのが実は木村だったことがわかっています。

しかし、12月8日愛知県体育館での馬場&木村組vs鶴田&天龍源一郎組の公式戦で馬場に裏切りのラッシング・ラリアットを見舞い仲間割れ。

以後はヒールユニット「国際血盟軍」のリーダーとして鶴見五郎、剛、アポロ菅原、高杉正彦らを率いて全日本プロレス本隊、ジャパンプロレス軍団と抗争を展開、国際血盟軍は途中より失踪から復帰し「ヒットマン」としてローンバトルをしていた阿修羅・原も加入し勢力拡大しました。

ジャパンプロレスの参戦で選手が飽和状態となった全日本プロレス。86年4月からはスーパー・ストロング・マシン、ヒロ斉藤、高野俊二のカルガリー・ハリケーンズがジャパンプロレス経由で参戦が決まった為、剛、菅原、高杉の3人は契約解除されました。また原ジャパン軍に造反したキラー・カーンやハリケーンズとタッグを組むことが多くなり国際血盟軍は木村と鶴見の2人だけのタッグが多くなりました。

87年頃より対戦相手である馬場を相手に試合後にマイクパフォーマンスを見せるようになり、ベビーフェイス的な人気が急上昇、88年8月29日日本武道館での馬場とのシングルマッチに敗れた後、馬場を「兄貴」と呼んでタッグ結成を直訴、同年10月28日横浜文化体育館で馬場との義兄弟タッグを結成、ベビーターンしてこの年の「世界最強タッグ決定リーグ戦」に出場。

平成に入った89年移行は馬場&木村&百田組のファミリー軍団vs大熊元司&永源&渕正信組の悪役商会の抗争に入り「明るく楽しいプロレス」を繰り広げました。

00年6月の三沢光晴の独立と共にプロレスリング・ノアに移籍を果たし、前座で百田と組んで永源らとコミカルな試合を展開、01年6月24日には愛知県体育館で還暦記念試合を行い、百田と組んで永源&菊地毅組と対戦。百田が菊地をサムソン・クラッチで丸め込んでフォール勝ちしています。

晩年は痛めていた腰が悪化し、花道を歩くときも言い方は悪いですがヨチヨチ歩きとなり、ロープを跨ぐのもやっとの状態でした。脳梗塞を患ったという情報もあり、体調不良が伝えられましたがリングに戻ることは叶いませんでした。
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