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2025年04月17日07:33

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【特別編】前田日明のYouTubeにおける問題提起について(4)

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96年以降は日本プロレス界が徐々に下り坂に入っていった時期であると言えます。3月15日新日本プロレスから倍賞鉄夫常務取締役、吉川義一宣伝部長連名でベースボール・マガジン社の週刊プロレス編集部、山本隆司(ターザン)編集長宛に書面にて取材拒否が通告されました。

「地方で手を抜く新日本プロレス」と書いたのが原因でしたが、出る杭は打たれるでターザンが邪魔になったということでしょう。

公称40万部を売っていた週プロですが、国内業界最大手の新日本プロレスから取材拒否を食い、新日本プロレスの試合グラビア記事が載らないとあっては販売部数に影響が出る、ターザンは週プロ編集長を辞任したばかりではなく7月にベースボール・マガジン社を退職しました。

新日本プロレスの恒例の1月4日東京ドーム大会では前95年10月9日同所で行われた武藤敬司vs高田延彦のIWGPヘビー級選手権試合の再戦が行われ、高田が腕ひしぎ逆十字固めでギブアップ勝ちを収め、王座を獲得。初戦の雪辱を果たしましたが初戦で敗れたインパクトがあまりに強く、汚名返上までには至らず、4月29日東京ドームで橋本真也の三角絞めに敗れ、僅か4か月弱の短命王者となっています。

この年前半の新日本プロレスはUWFインターナショナル、WARとの交流戦を積極的に行いましたが興行的にはヒットせず。

92年暮れに船木誠勝、鈴木みのるらパンクラス勢による大量離脱があり、藤原喜明と石川雄規、デビュー前の練習生だけになり団体存亡の危機に陥ったプロフェッショナルレスリング藤原組は池田大輔、臼田勝美、小野武志、アレクサンダー大塚、田中稔、米山サトシ(モハメドヨネ)ら生え抜き組がデビューし息を吹き返したものの、前95年11月19日横浜文化体育館で石川雄が中心となり選手達がジャージをリング上に脱ぎ捨てて2度目の大量離脱。藤原組は藤原一人の個人プロモーションとなりました。

石川雄が代表となり格闘探偵団バトラーツを設立し4月13日小田原市川東タウンセンター・マロニエホールで旗揚げ戦を行い「プロレスに近いUWFスタイル」のバチバチスタイルで人気を博しました。

IWAジャパンは1月末でブッカーをしていたビクター・キニョネスが浅野起洲と対立し離脱、ビクターは2月にプエルトリコ軍団を引き連れて古巣FMWにUターンしました。

前95年8月20日には川崎球場に初進出、テリー・ファンク、タイガー・ジェット・シン、カクタス・ジャック、テリー・ゴディ、ダン・スバーンら豪華外国人レスラーを招聘していIWAジャパンでしたがビクターが手を引くとメンバーは弱体になり興行規模も縮小を余儀なくされています。

NOWからIWAジャパンに移籍、シンとの凶悪コンビでオールドファンを喜ばせていた上田馬之助は同年3月16日未明、前日の巡業先である仙台から東京に戻る途中、東北自動車道埼玉県岩槻近辺で交通事故に遭い、半身不随の重傷を負いました。

上田は営業部員である大盛一生(本名 金一生、当時21歳)さんの運転する宣伝カーの助手席に乗って東京に向かう途中でした。高速道路の路肩に停車。これは後ろを走っていた選手バスが追いつくのを待っていたとのことのです。

そこへ大手運送会社の10トントラックが追突、事故に遭ってしまいました。原因はトラックの脇見運転でした。その事故で運転席にいた大盛さんは頭蓋骨骨折の重傷を負い死亡。上田もフロントガラスを突き破り20メートル近く突き飛ばされ、アスファルトに叩き付けられました。幸い一命は取りとめたものの、この事故で上田は勁髄損傷の重傷を負い、胸から下は不随となってしまいました。

北米大陸でのローカルテリトリー時代の移動はカーシェアで、カーアクシデントと飛行機アクシデントは頻繁に起きておりアドリアン・アドニス、エリック・ザ・レッド、ムーンドッグ・ロニー・メインら数多くのレスラーが交通事故で生命を落としています。また上田自身も77年の暮れにオクラホマで交通事故に遭い、それまで髪の前頭部だけ金髪にしていましたがそれを機に全部金髪に染めたと語っていました。

しかしバス、鉄道移動が主体の日本プロレス界ではこう言った事故はこれまでにはなく、(2)で書きましたNOWの直井敏光に続いてインディー団体の過酷な移動が浮き彫りにされました。

上田ほどのビッグネームが宣伝カーの助手席に乗って東京に戻ろうとしていたのも信じ難いですし、こちらは貰い事故なので亡くなった大盛さんには気の毒としか言いようがないですが、上田が選手バスに乗っていなかったのが悔やまれました。

前田日明のハイキックをノーガードで受けきったタフな上田でしたが相手がトラックではひとたまりもない状況だったと思います。

96年6月30日横浜アリーナで開催された「メモリアル力道山」は前95年4月2日東京ドームで行なわれたベースボール・マガジン社主催「夢の懸け橋〜憧夢春爛漫〜」のコンセプトと同じく、各団体の提供試合を基本としたオールスター戦的な興行でした。

第2試合でのIWA格闘志塾提供の鶴見五郎vsザ・マミー(アポロ菅原)の一戦で、マミーは場外で鶴見にチェーンでラリアット。リングに戻るとボディスラムを見舞い、セカンドロープからダイビングヘッドバットを敢行しました。しかし、着慣れないコスチュームで距離感が掴めなかったマミーは頭からマットに突っ込み、失神してしまいました。鶴見は動けなくなったマミーの足をSTF気味に決め7分9秒、レッグロックで勝利。

これに対してメインイベントで試合を終えた長州力は「オレ個人から言わせりゃ、あんなもんプロレスじゃない!痛烈なインディー批判を行なっています。

長州は真FMWのターザン後藤に噛み付いて来て欲しかったとのことでしたが、長州の思惑とは裏腹に長州に噛み付いたのは大日本プロレスの社長、グレート小鹿でした。

9月16日愛知県体育館のリングにケンドー・ナガサキ、ブルーザー岡本、山川征二(竜司)、谷口裕一、田尻義浩(TAJIRI)らと共にリングに上がった小鹿は新日本プロレスに対して宣戦布告しています。

これまでメジャーとインディーの対戦と言えば93年の新日本プロレス「ベスト・オブ・ザ・スーパージュニア」でのみちのくプロレス勢の参戦、94年4月16日新日本プロレス両国国技館での「SUPER J CUP」、同年5月5日FMW川崎球場での大仁田厚vs天龍源一郎ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチなどが挙げられますが、大仁田、天龍共に全日本プロレス出身であり、メジャーとインディーの対決とは言い難いと思います。

8月12&13日の2日間、日本武道館でベースボール・マガジン社主催による女子プロレスオールスター戦「真夏の夜の武道館」が開催され、エース級と若手がタッグを組む「ディスカバー・ニューヒロイン・タッグ・トーナメント」と女子版アルティメット「U☆TOPトーナメント」を同時開催。

タッグ・トーナメントはダイナマイト関西&久住智子(日向あずみ)組が優勝、U☆TOPトーナメントはロジーナ・イリーナが優勝しましたが観客は初日が9,300人、2日目が9,500人発表でしたが、館内は空席が目立ち、厳しい入りとなりました。女子オールスター戦もやり過ぎて新鮮味がなくなり、飽きられて来たのでしょう。

9月11日UWFインターナショナル神宮球場にこれまで「鎖国」体制を敷いていた全日本プロレスから川田利明が参戦、高山善廣とシングルバウトで対戦、3カウントフォールありのルールで川田がジャンピング・ハイキックからの体固めでフォール勝ち。

メインイベントは高田と天龍源一郎の初対決(高田が腕ひしぎ逆十字固めで勝ち)でしたが前売券の売上は芳しくなく、川田の参戦決定で10,000枚以上の実券が売れ、41,087人超満員発表の大観衆を動員しました。

団体経営が苦しかったUWFインターは新日本プロレス、WARとも提携しながら高田は石川孝志の東京プロレスにも登場、10月8日大阪府立体育会館では4月に全日本プロレスから2度目の離脱をしたアブドーラ・ザ・ブッチャーと対戦、胸板へのハイキック連発でフォール勝ちしています。

しかし時は既に遅し、年末の12月27日後楽園ホール大会で活動休止となりました。

97年は創立25周年を迎えた新日本プロレスが1月4日&4月12日東京ドーム、5月3日大阪ドーム、8月10日ナゴヤドーム、11月2日福岡ドームと4大ドームツアーを敢行。92年バルセロナ五輪柔道銀メダリストの小川直也がプロ格闘家に転向して参戦、プロデビュー戦でIWGPヘビー級王者橋本真也を破りました。

ドームツアーはナゴヤ、福岡はカード的にも弱く苦戦しています。また6月19日には港区六本木の新日本プロレス事務所で長州が引退を表明する記者会見が開かれ、年内は引退ツアーが組まれています。

同じく創立25周年を迎えた全日本プロレス。三冠ヘビー級王座は前96年に三沢光晴→田上明→小橋健太と移り、1月20日大阪府立体育会館で前王者三沢が小橋を42分6秒、片エビ固めで破り王座返り咲きを果たしていますが、フィニッシュは壮絶でした。

三沢は小橋の剛腕ラリアットをかわしてバックを取ると投げっ放しのタイガー・スープレックス'84を危険な角度で決め、小橋から立ち上がってくるのを待って、対角線のコーナーからランニング・エルボーを決めフォール勝ち。

この試合を前に小橋は京都府福知山市に住む実母に「もし今度の試合で俺に万が一のことがあっても三沢さんを恨まないで欲しい」と言ったのは有名なエピソードで、まさに(3)で書いた「信頼し合ってるからこそ、お互いに生命のやり取りが出来る世界観」のプロレスを展開していきました。

全日本プロレスにも厳しい懐事情があり、既に深夜枠の放送となってい日本テレビの「全日本プロレス中継」が94年4月から30分枠に短縮され、放映権料もダウン。

四天王ブームも徐々に下火になり、地方興行の数が減少、この赤字分を日本武道館大会で補填するような形となり、89年当時は「春夏秋冬武道館物語」と言われ、年間4回だった日本武道館大会も徐々に増えていき、94年からは年間8シリーズ中「新春ジャイアント・シリーズ」以外のシリーズで年7回日本武道館大会が組まれ、四天王プラス秋山準の5強による激しい闘いはますます危険度がエスカレートしていくことになりました。

また暮れの「世界最強タッグ決定リーグ戦」も96、97年の2年は、2回総当たりリーグ戦形式となり三沢以下選手達の負担は大きくなる一方でした。

Uインター所属だった高山は先にUインターから全日本プロレスに転戦していたゲーリー・オブライトの仲介で全日本プロレスのリングにフリー参戦が決定(後に所属となる)

Uインターの後継団体としてキングダムが5月4日国立競技場代々木第二体育館で旗揚げ戦を行いました。所属選手は安生洋二、佐野雄飛(巧真)、垣原賢人、高山、金原弘光、桜庭和志らでエース高田の参戦はなし。

女子プロレスでは男性ファンに根強い人気を誇り団体を牽引して来たFMW女子部の工藤めぐみが4月29日横浜アリーナでのシャーク土屋との女子初のノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで引退。前96年に引退したコンバット豊田と並んで他団体との対抗戦で存分に闘える実力者の相次ぐ引退でFMW女子は戦力がダウン。

8月には旗揚げ29年を誇る老舗・全日本女子プロレスに激震が走りました。8月20日日本武道館大会の後アジャコング、井上京子、玉田りえ、府川由美が退団を発表。これを機に給料未払などの経営危機が表面に出てくることになりました。

田村欣子、元気美佐恵、タニー・マウス、吉田万里子が退団、9月21日の川崎市体育館大会後に下田美馬、三田英津子、椎名由香、チャパリータASARI、サヤ・エンドーが退団することを発表。この頃までに14人の選手が退団して残留した選手数を上回りました。翌98年には全日本女子プロレスの広報だったロッシー小川こと小川宏が代表となったアルシオン、篠泰樹が代表となった井上京子らのネオ・レディース(新日本女子プロレス)とに分裂しています。

全日本女子プロレスは10月に取引金融機関である東京産業信用金庫から半年以内に2度の不渡を続けて出し、東京手形交換所から銀行取引停止処分を受け、事実上、倒産。株式や不動産投資の失敗、埼玉県秩父市に「リングスター・フィールド」なる合宿施設を作るも収益を生み出せずに終わりました。

債権者の理解を得て事業は存続、フジテレビが見放さなかったのが救いでした。

10月11日東京ドームで行なわれた「PRIDE−1」で高田がヒクソン・グレイシーと対戦、僅か1ラウンド4分47秒、腕ひしぎ逆十字固めでギブアップ負けを喫しています。この「グレイシーショック」でプロレス界に大きな暗雲が立ち込めてしまいました。
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