初来日のメキシカンが2人。「山犬」ペーロ・アグアヨ。本名ペドロ・ダミアン・アグアヨ、1946年1月18日、メキシコ・サカテカス州出身の当時33歳。176cm、97kg。リングネームの 「ペロ」とは「犬」を意味し、日本では『山犬』の異名で呼ばれました。ルチャリブレでは異色のラフファイターであり、主に素顔のルードとして活躍しました。(ペーロ・アグアイヨ表記の文献もあり)
少年時代から喧嘩に明け暮れ、レスリングではメキシコで4度のチャンピオンになっています。ディアブロ・ベラスコのジムで修行を積み、70年5月にプロレスラーとしてデビュー。75年7月、トーナメントの決勝でリンゴ・メンドーサを破りNWA世界ミドル級王座を獲得。76年10月にエル・ファラオンに敗れるまで14度の防衛に成功しています。
78年にUWAに移籍して、今回待望の新日本プロレス初来日。今回凱旋帰国するグラン浜田とはライバル関係にあり、これまで、日本のリングではメキシカンは身体のサイズが日本人レスラーとは違い、試合スタイルも噛み合わず、ミル・マスカラス以外は必ずしも正当に評価されておらず。今回の浜田の凱旋帰国で日本にもルチャ・リブレが定着出来るか注目されます。
「メキシコの大砲」ベビー・フェイス、1947年8月31日、本名ホセ・ガダールペ・フェンテス・オルチョアメキシコ・コリマ州出身の当時31歳、170cm、98kg。
「ベビー・フェイス」とはアメリカで「ヒール」の対義語に使われる「善玉」の意ですが、「メキシコではベビー・フェイスはリンピオ、もしくはテクニコ、ヒールはルード」それを逆手に取って、試合スタイルはルード。
UWAではアグアヨと並ぶ代表的ルードで浜田のライバル。気性が非常に荒く、その荒っぽいファイト振りから現地では「メキシコの大砲」と呼ばれ、得意技は「セントーン」。
ハン・リーは前78年6〜7月の「サマー・ファイト・シリーズ」以来7か月ぶりの来日、前回は星野勘太郎、木戸修、永源遙以下、中堅どころに負け続けていいところなく終わりました。トレーナーとしては優秀ですが現役ルチャドールとしては華がなく地味な存在。ただし、今回はアグアヨ、Bフェイスといったメキシカン、浜田も一緒だけに本領を発揮することが出来るか?
当初は来日メンバーの中には入っていませんでしたが、サイレント・マクニーがタイガー・ジェット・シンの推薦により、急拠、参戦決定。前78年1〜2月の「新春黄金シリーズ」以来1年1か月ぶり2度目の来日。前回は負傷の為、来日がキャンセルとなったガマ・シンの代打で初来日。
カナダを主戦場としており、リングネームからも解るように言葉が不自由という聾唖者のプロレスラーです。障がいを乗り越えて高校卒業後に馬場、シン、アドリアン・アドニスの指導者として知られるトロント在住のフレッド・アトキンスに師事しプロレス入り。
初来日時の試合ぶりはしょっぱく、中堅、若手に負けてばかりいましたが、シンが新日本プロレスのフロントに頼み込んで使ってもらったというのが実際のところです。
前78年11〜12月の「プレ日本選手権」で大暴れした「狼軍団」ヒロ・マツダ、上田馬之助、マサ齋藤の3選手が2シリーズぶりに新日本プロレスを再び急襲。
シンと上田は前回の78年「ゴールデン・ファイト・シリーズ」で仲間割れ、両者の一騎討ちとなった9月19日、大阪府立体育会館では、シンが特別レフェリーの猪木に暴行を加え、上田にも「やってしまえ!」と指示。上田はシンが痛めつけた猪木の左肘を攻撃しています。
さらに2日後の9月21日、品川プリンスホテル・ゴールドホールでの猪木vsシンのNWFヘビー級選手権試合の試合中、セミファイナルを終えた上田がフラリとリングサイドに姿を現すとシンに何やら耳打ちして凶器を手渡し、シンは凶器を使って猪木にさらなるダメージを与えていきました。シンと上田はどうやら「復縁」したようでしたが、この後の同シリーズの興行で、シンと上田がタッグを組んだ記録はなく、果たして本当に復縁したのかどうかもみどころの一つです。
打倒・猪木の為にシンと狼軍団が手を組めば、新日本プロレス本隊にとっては厄介なことになります。シンとマツダ、シンとM齋藤という組み合わせも興味深いです。
3年8か月ぶりに新日本プロレスのリングで凱旋帰国するグラン浜田。浜田は1950年11月27日、群馬県前橋市出身の当時28歳。
樹徳高校、河合楽器製作所において柔道の選手として活動するも、体調不良により退職。72年、同級生であり、友人の関川哲夫(ミスター・ポーゴ)が新日本プロレスへ入門志願に向かう際に付き添いで同行し、関川とともに柔道での実績を買われて浜田も入門することになりますが、実際にはこの時に車を運転して来たのが浜田で、当時旗揚げしたばかりで営業用車輌が不足していた新日本プロレスでは、浜田の乗ってきた日産チェリーがお目当てで、入門させられ、車は担保みたいな感じで社用車に召し上げられ、夜逃げも出来なかった、というのが事実のようです。
同年3月6日の大田区体育館での新日本プロレス旗揚げ戦にてイワン・カマロフを相手にデビュー戦を行うことが発表されていたが、当日、豊登が緊急参戦し、山本小鉄とタッグを組んでジム&ジョンのドランゴ兄弟と試合を行ったため、その影響を受けて浜田が試合カードから外されました。
もし、豊登の友情参戦がなければ、記念すべき新日本プロレスの旗揚げ戦の第1試合は藤波辰巳vsエル・フリオッソではなく、浜田vsカマロフになるところでした。
改めて3月16日、松山・愛媛県民会館での対藤波戦にて、本名の浜田広秋をリングネームとしてデビュー戦を行い9分55秒、逆エビ固めでギブアップ負け。
「リトル浜田」のリングネームで主に前座で試合を行っていたが、軽快な動きで大きな選手を手玉に取り、前座戦線の台風の目とも言われました。若手時代のちゃんこ番の際にカツ丼、ラーメンなどの店屋物の出前を頼んで先輩達を怒らせたエピソードもありました。
75年5月30日、後楽園ホールのリング上で、西ドイツに武者修行に向かう木戸、藤波、メキシコに修行に出る橋本小助(退団)らと海外武者修行に出発の挨拶。
同年、メキシコへのプロレス修行に出る。メキシコではリングネームを現在の「グラン浜田」に変更した。メキシコではUWAを中心に活動し、76年にUWA参戦の最優秀外国人戦にも選ばれています。
前78年8月13日、メキシコシティ・パラシオ・デ・ロス・デポルテスで藤波がレイ・メンドーサとWWWFジュニア・ヘビー級王座防衛戦を行う為に来墨した時に、アニバル&センチュリオン・ネグロとのトリオでカネック&セザール・バレンチノ&カルロフ・ラガルデ組と対戦した6人タッグマッチはテレビ朝日「ワールドプロレスリング」でも放送されていました。また、藤波vsメンドーサ戦ではテレ朝の放送席に座り、ゲスト解説をしています。
今回は3年8か月ぶりの凱旋帰国となりますが、この間にメキシコ人女性と結婚して家庭を持っていた(ルチャドーラのソチ浜田は夫人の連れ子、浜田文子はこの2年後の81年2月14日に生まれている)浜田は新日本プロレスのシリーズに長期参戦することなく、メキシコを拠点としながら日本へは年1〜2回のペースでシリーズ参戦することになっていきます。
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