76年新日本プロレス「闘魂シリーズ第2弾」が終わると猪木はパキスタン遠征を行っています。
12月12日、カラチ・ナショナル・スタジアムは70,000人という大観衆を集めましたが実際の有料入場者数は50,000人で残りの20,000人はスタジアムの上の小高い丘からの「タダ見」だったとのことです。
モハメド・アリ戦の直後である7月初めに、パキスタン大使館を通じて現地のプロモーターから、新日本プロレスにオファーがあったと言います。10日間の遠征で、2試合の契約。呈示されたギャラは10万ドル(約3,600万円)。
アリ戦で7億円とも9億円以上とも言われている過大な負債を背負った新日本プロレスは外貨稼ぎの為にこのオファーを受けました。
アクラム・ペールワンはパキスタンの英雄として有名でパキスタンのプロレス界を牽引していた存在で、1929年インドのパンジャブ州アムリトサル出身、当時47歳。47年にイギリス領からインドとパキスタンが分離独立すると、イスラム教徒だった一家は揃ってパキスタンのラホールに移住。50年代の初めから兄弟と共にパキスタンでプロレスラーとなり、パキスタンプロレス界を牽引する存在となった「ボル・ブラザーズ」(ボロ・ブラザーズ表記の文献もあり)の五男。パキスタンではカリスマ的存在だったと言われています。
猪木は倍賞美津子夫人(当時)、永源遙、藤原喜明、小沢正志(キラー・カーン)、マネージャーの新間寿、レフェリーのミスター高橋、通訳のケン田島と共にウィリエム・ルスカ戦を終えた翌12月10日、羽田空港を出発しました。
12月11日の午前3時にカラチに到着。その日は午前中からパキスタン初代総督モハメッド・アリ・ジンナーの墓を訪れる行事があり、午後は国営テレビの特別番組に出演、翌12日に試合というハードなスケジュールをこなしました。
猪木は9日、蔵前国技館でのルスカ戦で首を負傷しており、コンディションは悪かったとのこと。
そして12日の夜には試合。何とこの試合は当時のパキスタン大統領も観戦。リング周辺はライフルを持った兵士に囲まれているという緊迫感漂う空間となりました。
試合前、勝ち負けの決められている通常のプロレスの試合だと思っていた猪木でしたがが、試合の直前になってボル・ブラザーズ側から事前の取り決めなしのリアルファイトだと通告されました。試合の数時間前になってから「俺たちはプロレスはしない。ノールール・ファイト(リアルファイト)だ。」と突き付けられたといいます。
通常のプロレスだと思っていた猪木サイドは当然焦り交渉をしようとしましたが、ボル・ブラザーズ側は一切話し合いに応じようとせず。先方の陰謀に嵌められた猪木ででしたが、覚悟を決めてリングに上がりました。
完全アウェイの中、リアルファイトで戦うことを決心した猪木。このあたりは肝っ玉の座り方が違いました。
試合は5分6ラウンド3本勝負。6ラウンドで決着がつかない場合、延長ラウンドが無制限に行われる。事実上のデスマッチです。反則は目への攻撃、顔面を拳で殴ること、チョーク(首を絞める、喉への攻撃)、頭髪を掴むこと、コスチューム(タイツ)を掴むこと、金的攻撃と決まりました。
この試合は12月31日、大晦日の午後8時「ワールドプロレスリング」のレギュラー枠で中継され、フィルム映像で画像は悪く現地での実況はなし。スタジオに猪木をゲストとして呼び、山崎正アナウンサーの進行により猪木が試合を振り返る形式で放送されました。
この試合はビデオパック・ニッポンやポニーキャニオンの「キラー猪木」シリーズなどVHSからDVDまで複数の映像ソフトになって発売され、現在でも視聴可能です。
そこで「ストロング小林さん追悼」という日記タイトルとは多少かけ離れますが、この年の新日本プロレスを振り返るにあたって大変に重要な試合でありますので映像を見ながら検証してみることにしました。
第1ラウンド、開始早々にアクラムの腕を取った猪木はアームロックからグラウンドヘ引き込んで腕ひしぎ逆十字固めへ移行。これをアクラムは上半身を起こして逃れます。
猪木の解説よるとアクラムはダブル・ジョイント(二重関節)という特殊な身体をしており、逆関節が決まらなかったという。アクラムは腹は出ていますがしっかりした筋肉がついており、重心が低くて力も強そうです。
足を狙うアクラム、猪木はロープへ逃げる。アクラムの得意技は逆エビ固め(ボストンクラブ)だと言われていますが、手の内がわからない相手とのリアルファイトは油断出来ず猪木も簡単には足を取らせません。1ラウンド終了間際、猪木はアリキックを放つがアクラムは微動だにしません。ここで第1ラウンド終了。
コーナーに戻る猪木。セコンドの藤原が笑顔を見せており、アクラムの実力を見切ったのでしょう。猪木と互角に渡り合えるレスラーではないと。(この項続く)
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