75年10月21日、永田町の東京ヒルトンホテル(キャピトル東急ホテル)で百田家(力道山家、力道山未亡人の百田敬子さんと百田家後見人、リキエンタープライズの山本正男代表)が記者会見を行いました。
本75年は力道山の13回忌にあたる事から、それを記念した大会「力道山13回忌追善大試合」を12月11日、日本武道館にて、全日本プロレス、新日本プロレス、国際プロレスの日本の3団体に呼び掛けて開催すると発表した。各団体には事前に相談して賛同してもらっているとのことです。
12月11日と言えば、会見の8日前の10月13日、猪木が新日本プロレスの事務所で「人間風車」ビル・ロビンソンとNWF世界ヘビー級選手権試合を行うと発表した蔵前国技館と同日。物理的に考えてこれは無理というもの。
時代が平成以降であれば、代替案として新日本プロレスより力道山門下生だった星野勘太郎、山本小鉄、魁勝司(北沢幹之)を派遣し、提供試合を行うことも可能だったかと思いますが、当時の新日本プロレスと全日本プロレスの関係を勘案すれば、それが無理な話であることは想像に難くないです。
この記者会見の席上に馬場がいなかったのは計画的で、それから6日後の10月27日、午後3時から港区六本木の全日本プロレス事務所で記者会見を行った馬場は、百田家が故力道山の13回忌にちなみ12月11日、日本武道館で行う「力道山13回忌追善大試合」への参加を各団体に呼び掛けた件で、全日本プロレスは参加の意思を表明、いの一番に参加を表明しています。
そんな渦中の中、10月24日、茨城県水戸市民体育館で新日本プロレスは75年の最終シリーズ「闘魂シリーズ第2弾」を開幕させました。
ベアキャット・ライト、ミスターX(ガイ・ミッチェル)、リッキー・ハンター、フィデル・カステロ&ラウル・カステロのカステロ・ブラザーズ、イワン・カラマゾフの外国人レスラーが参加、中盤からはイワン・コロフ、グレッグ・バレンタイン、そして終盤戦1週間にはロビンソンが特別参加。豪華なメンバーが集結、7週間に及ぶロングランシリーズとなりました。
注目は初来日の「幻の強豪」と言われた「黒い山猫」Bライト。1932年1月13日、ネブラスカ州オマハ出身の当時42歳。父親は1920年代に活躍したプロボクサーのエド "ベアキャット" ライト。Bライト自身もベアキャット・ライト・ジュニアのリングネームで50年代初頭にプロボクサーとして活動していた時期がありました。
54年、父親と同じ「ベアキャット・ライト」のリングネームでプロレスラーに転向し、ベビーフェイスのポジションでニューヨークを中心とした東部地区を主戦場に活躍。60年代初頭には、オハイオ地区にて黒人レスラーの総帥的存在だったボボ・ブラジルとタッグを組み、クリス&ジョンのトロス・ブラザーズと抗争を展開。
その後、ロサンゼルスのWWAに参戦し、63年8月23日、オリンピック・オーデトリアムでフレッド・ブラッシーを破ってWWA世界ヘビー級王座を獲得。プロレス界において、黒人初の世界王者となりました。
WWAは当時他の団体では難しかった日本人(力道山)、覆面レスラー(ザ・デストロイヤー)など異色の世界チャンピオンを輩出しており、Bライトもその路線に乗った王座戴冠だったといえます。
しかし、人種差別が露骨だったこの時代、黒人世界チャンピオンに対する当時の風当たりは強く、黒人迫害団体「KKK」からの脅迫を受け12月16日に行われるはずだったエドワード・カーペンティアとの防衛戦を放棄して失踪。WWAはBライトからタイトルを剥奪し、カーペンティアを新王者に認定しました。この剥奪騒動には諸説あり、Bライトから世界王座を移動させようとしたWWAのシナリオに反発し、カーペンティアに負けてベルトを明け渡すマッチメイクを拒否したことが原因とも言われています。
以降は一時、アメリカ合衆国本土を離れ、カナダのバンクーバー地区やハワイなどを転戦。バンクーバーでは64年4月13日、エンリキ・トーレスとのチームでドン・レオ・ジョナサン&キンジ渋谷組からNWAカナディアン・タッグ王座を奪取。
その後は米本土に復帰、オレゴン州を中心パシフィック・ノースウェスト地区で試合した後、当時ジム・バーネットが主宰していたオーストラリアのワールド・チャンピオンシップ・レスリングに登場、同地区におけるベビーフェイスのトップだったマーク・ルーインと組み、66年7月29日にスカル・マーフィ&ブルート・バーナード組を破って豪州版IWA世界タッグ王座を獲得。同年8月19日にはマーフィから豪州版IWA世界ヘビー級王座を奪取するなど本来の実力を発揮。67年もマーフィやキラー・コワルスキーを相手に同王座を争いました。
67年の末より米本土に本格的に復帰、カリフォルニア州サンフランシスコ地区では同年12月2日にレイ・スチーブンスを破りUSヘビー級王座を獲得。翌68年2月17日にキンジ渋谷にタイトルを奪われるも2か月後の4月13日に奪還、7月4日にキング・イヤウケアに敗れるまで、サンフランシスコ地区のメインタイトルであるUSヘビー級王座を保持しました。
70年代も各地を転戦し、南部のフロリダ地区では72年3月28日に「デスマッチの鬼」ボリス・マレンコ(グレート)からブラスナックル王座を奪取、これが最後のタイトル戴冠となりました。
73年2月に全日本プロレスの「ジャイアント・シリーズ結集戦」に初来日が発表されましたが、キャンセルとなっています。(同時来日予定だったクリス・コルトもキャンセル)
73年8月初旬、Bライトが死亡した…とのニュースが全米のプロレス関係者の間に広ままりました。
先日のベースボール・マガジン社のコラムに「Bライト死亡説」の記事が掲載されていたので引用してみたいと思います。
【ライトは黒人で初めて“世界”と名のつくタイトル(WWA世界王者)を手にした実力者。普通なら「気の毒に…まだ若いのに惜しいことをしたな」「いったい何が原因だ。まだまだやれたのに」などとなる。しかし、周囲の反応は「どこでくたばったんだ。どうせろくな死にざまじゃねぇだろう」「薬の飲みすぎでいかれたんじゃねぇのか」というものが大半。当時の記事にも「悲しむ者なんか誰一人いなかった」と書かれている。
さすがに昔話でもずいぶんひどい話だが、当時の事情に詳しいミスター・モトも「ライトは実力もあったし、いいレスラーだった。それで世界タイトルを取れたのだが、そのビッグチャンスを与えてくれたWWAに対して、ちっとも報いようとしなかった。自分勝手な行動が多く、スケジュールをどんどん変え、約束を破って試合をすっぽかし、おまけに世界チャンピオンという立場をカサにして、どんどんギャラを吊り上げる」と証言している。その結果、さまざまなテリトリーで不義理を働いたライトは、試合から遠ざかり、死亡説が流れたという。
だが、これは誤報。同年8月18日、ライトはミシガン州デトロイトでソニー・キングと組んでジェリー・グラハム&アリババと対戦。“亡霊”のように現れたライトに周りは驚いたのだった。当時の誌面にはこんな刺激的な締めの言葉がつづられている。
「しょせんライトはもう“亡霊”にしかすぎない。過去の名声を売って生き延びるベアキャット・ライト…。WWA世界チャンピオンの末路としてはあまりにもショッキングである」】
とあります、この73年にはザ・シークの主宰するデトロイト地区に参戦して、Sキングをパートナーに前出のJグラハム&アリババ組の他、ジート&ベポ(ニコリ・ボルコフ)のザ・モンゴルズなどと対戦。74年はノースカロライナのクロケット・プロでジョニー・バレンタインと抗争しました。
しかし73年の来日キャンセル、死亡説などで果たして「Bライトは本当に来るのか?」という不安もあったのは事実でした。
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