86年春の祭典、「チャンピオン・カーニバル」は3月29日、後楽園ホールで開幕。前85年は長州力以下ジャパンプロレス勢の来襲で、長年親しまれたシリーズ名を暮れの「世界最強タッグ決定リーグ戦」以外は一新。
チャンピオン・カーニバルも春には開催されず秋の10月に「ワールド・チャンピオン・カーニバル」として行われ、その前の83、84年は「グランド・チャンピオン・カーニバル」としてPART�機銑靴泙韮灰轡蝓璽困砲�けて行われ、その前の73年〜82年までの10年間は優勝争い形式のシリーズで第○回がついています。73年の第1回だけはあと付けでつけられたもので、単なる「チャンピオン・カーニバル」という名称でシリーズが行われるのは実に13年ぶりということになります。
参加外国人選手のプロフィールです。このシリーズは外国人選手全員が開幕戦から最終戦の4月26日、大宮スケートセンターまでフル参戦、特別参加はおりません。
AWA世界ヘビー級、PWFヘビー級、PWF世界タッグの三冠王者、スタン・ハンセンは前85年11〜12月の「世界最強タッグ決定リーグ戦」以来3か月ぶりの来日、前回の最強タッグではテッド・デビアスと組んで最多得点により優勝。
帰国後の12月29日、ニュージャージー州イースト・ルーサーフォード・メドーランズ地区ブレンダン・バーンアリーナでリック・マーテルを逆エビ固めでギブアップさせ、AWA世界ヘビー級王座を獲得。初の世界3大メジャータイトルのうちの一つを獲得したハンセンが三冠王として来日。
ハンセンのパートナー、PWF世界タッグ王者、デビアスもハンセン同様、前年の最強タッグ以来3か月ぶりの来日、PWF世界タッグ王座防衛戦の他に、天龍が返上したUNヘビー級王座決定リーグ戦にもエントリー、二冠を狙います。
ロン・バスは前85年3〜4月の「激烈!スーパー・パワー・ウォーズ」以来1年ぶりの来日。ハンセンとのラリアット・ライダーズは82年8月の「スーパー・パワー・シリーズ」で初結成され9月2日、宇都宮・栃木県体育館で馬場&鶴田組のインターナショナル・タッグ王座に挑戦するも惜敗。
しかし、翌83年4月12日、松山・愛媛県民館で馬場&鶴田組を破ってインターナショナル・タッグ王座を獲得。4月17日、長崎国際体育館で馬場&鶴田組のリターンマッチを受けて敗れ転落、5日天下に終わっていますが、ハンセン&ブルーザー・ブロディ組はインターナショナル・タッグのベルトは巻いておらず、バスは「ブロディ不在時のハンセンの正パートナー」のポジションにおり、84年4月4日、岡山武道館で馬場&鶴田組、85年4月3日、山形県体育館では鶴田&天龍組のインターナショナル・タッグ王座に挑んでいました。
そんな流れが変わったのは85年4月、鶴龍コンビヘのインターナショナル・タッグ王座挑戦の後、デビアスが特別参加してきてブロディが新日本プロレスに移籍したことで空位となったPWF世界タッグ王者候補(正式な認定は8月の次期シリーズ来日前)としてハンセンのパートナーに指名されてからでした。バスの扱いは悪くなり、中堅の石川敬士に敗れるなど成績不振で帰国。以来1年呼ばれず果たして復活なるか?
全日本プロレス初参戦となるジョージアの顔役、オレイ・アンダーソンは73年10〜11月の国際プロレス「ビッグ・ウィンター・シリーズ」に兄のジンとのアンダーソン兄弟で来日して以来実に12年半ぶりの来日。
NWAジョージアの役員、株主、ブッカーをしていた為なかなか他のテリトリーヘの遠征が出来ず。84年7月、議決権を有する過半数以上の株式を所有していたジム・バーネット、ジャックとジェリーのブリスコ兄弟がビンス・マクマホンに株式を売却した為、マーケットはWWFの手中に。
オレイは失脚し職を失う破目になりましたが、以降は独立して自らプロモーションを起ち上げてジョージアでビンスと張り合うも資金力の差で興行メンバーの豪華さで太刀打ちできず、クローズしてノースカロライナ州のジム・クロケットプロ入りしています。
NWAジョージアの顔役だったオレイは癖のある人物でレスラー仲間から嫌われていましたが性格のいいハンセンはオレイとは上手くやっており、ハンセンが新日本プロレスにいた頃からアメリカではジョージアを中心にサーキットしていました。今回はハンセンの口利きもあって久しぶりの来日が実現しました。
今シリーズ参加外国人は以上4選手と全日本プロレス旗揚げ以来最少の人数。ジャパンプロレス勢の本格参戦から1年3か月経ち、いよいよ外国人枠予算を削減しなくてはならなくなりました。
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