mixiユーザー(id:21258650)

2021年01月25日00:35

246 view

週プロ流智美あの日あの時予想2020年総括(18)

第134戦 5月13日発売号●【予想】没後20年、ジャンボ鶴田、マニラに死す(00年フィリピン・マニラ)【正解】IWGP決勝リーグ戦、前田明(日明)vsアンドレ・ザ・ジャイアント(83年新日本プロレス大宮スケートセンター)【参考】2015年5月13日発売号は鶴田、リック・マーテルに敗れAWA世界ヘビー級王座から転落(84年ミネソタ州セントポール・シビックセンター)

【解説】20年はGW明けの発売はなし。おそらく、週プロが週刊誌化されてから初のGWとなる84年から37年目にして初のGW休刊だろうと思われます。この年は5月2日(土)〜6日(水)までが休日であり7、8が平日。通常であれば8日(金)あたりには発売されるところですが、新型コロナウイルス感染拡大防止に起因した政府の緊急事態宣言中であり、プロレス界も興行中止、あるいは無観客配信のみの興行を開催していた時期であり、印刷会社や出版流通を考えると無理に出す必要もなかったかと思います。

ちなみにGW週もし発売があれば私の予想はハーリー・レイスvsディック・マードックのNWA世界ヘビー級選手権試合(79年5月8日全日本プロレス天台町千葉県体育館)で流さんの2015年5月8日発売号はアブドーラ・ザ・ブッチャー、馬場に反則勝ちで第4回チャンピオン・カーニバル優勝(76年5月8日全日本プロレス札幌中島スポーツセンター)でした。

ちなみに1年前の19年5月8日は水曜日で週プロ発売日にあたり、流さんはブッチャー、チャンカン初優勝を2回廻しで使っています。私の予想は猪木vs山本小鉄(75年新日本プロレス出雲市体育館)でした。

本題に入りますが、20年は「怪物」ジャンボ鶴田の没後20年にあたる年で元週刊ゴング編集長、小佐野景浩著による「永遠の最近王者 ジャンボ鶴田」がワニブックスから発売され重版されるなど、鶴田の強さが改めて再評価された年でもありました。

私も本日記で「ジャンボ鶴田怪物伝説」を長きに亘って執筆中であり、そちらも過去ログをご覧頂けると幸甚です。

85年の8月に右肘の手術で慶応大学病院に入院した時に既にB型肝炎のキャリアであることが判明していたという鶴田は92年7月4日、横須賀市総合体育会館で開幕の「サマー・アクション・シリーズ」を左足首の負傷を理由に全休しましたが、思えばこの欠場も肝炎によるものだったと考えるのが妥当かと思います。

11月の「世界最強タッグ決定リーグ戦」を今度は内臓疾患により欠場すると発表があり、以後は長期欠場、93年10月23日、日本武道館で復帰、以後は体調と相談の上スポット参戦、休憩前の馬場、ラッシャー木村らとのファミリー軍団で永源遙、渕正信、菊地毅、泉田純らの悪役商会と「明るく楽しい」プロレスをするポジションになりましたが、体調第一であり、リングに上がって試合してくれればそれだけで良かったです。

98年9月11日、日本武道館で馬場&R木村と組み、永源&渕&菊地組との試合が結果的には最後の試合となりましたが、99年1月31日、馬場が約2か月間の入院生活の末、S字上行結腸癌による肝不全の為61歳で死去。

しかし、馬場が亡くなって1か月も経っていない2月20日に鶴田は全日本プロレスの取締役の辞任と選手としての引退を発表、3月6日、日本武道館で引退セレモニーを行うと、オレゴン州ポートランドの大学にスポーツ生理学の客員教授として赴任すると単身渡米してしまいました。(欠場中に鶴田は横浜松蔭大学、慶応大学などでスポーツ生理学についての非常勤講師をしていた)

鶴田は体調不良を訴えて同年秋には密かに日本へ帰国、この前後よりB型肝炎は肝硬変を経て、肝臓癌へ転化かつ重篤な状態へ進行していました。鶴田は岐阜県の病院に極秘入院。

鶴田は第三者らの進言もあり肝臓移植を受けることを決断。日本では親族間の生体肝移植しか認められておらず、親族で唯一血液型が合致した実兄がドナー候補となりましたが最終的に移植条件に合致しなかったため、日本での移植が不可能となり、海外での脳死肝移植に望みを賭けました。

オーストラリアで臓器提供の順番待ちをしていましたが、00年春になりフィリピン・マニラでドナー出現の報を聞き、フィリピンに渡航。国立腎臓研究所にて手術が行われましたが、肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック症状に陥る事態が発生、長らくの治療や16時間にも渡る手術の甲斐なく同年5月13日17時(現地時間では16時)に49歳の若さで亡くなっています。

82年の「新春黄金シリーズ」終了後にヨーロッパに武者修行に出た前田明(日明)はイギリスではサミー・リーの弟、クイック・キック・リーとして活躍、83年1月18日にはロンドンのロイヤルアルバート・ホールでウェイン・ブリッジを破りヨーロッパ・ヘビー級王座を獲得、5月に開催予定だったIWGPにヨーロッパ代表としてエントリーされることが決定。

IWGP開催に先だって4月に「スパークリングフラッシュ」として凱旋帰国した前田は4月15日、福山市体育館で観客に挨拶、12種類のスープレックスを使いこなすとして新日本プロレス道場で行われた公開練習ではマスコミにその一部を披露。

4月21日、蔵前国技館での凱旋マッチで前週の福山のテレビ生中継では藤波辰巳を破ってWWFインターナショナル・ヘビー級王者となった長州力と両者リングアウトで引き分けているポール・オーンドーフを僅か3分36秒、風車固めで撃破しました。

前田が「危険な蹴りや受け身の取れないスープレックスを使う」という評判は公開練習の段階ですぐに外国人選手の間で広まっており、オーンドーフは前田のフライング・ニールキックを受ける時に背を向けていました。

この日、テレビ生中継となった公式戦での初対決。前田の攻撃を受けたがらない外国人選手の中でアンドレは「遠慮しないで全部受けてやるから何でもやってこい」と言っていたそうで、前田はフライング・ニールキックをアンドレの胸に命中させていますが5分27秒、ヒッププッシュからの体固めでアンドレの横綱相撲と言える貫禄勝ち。

その両者が、前田が新日本プロレスを一旦は出てUWFの大将として戻って来た3年後の86年4月29日、津市体育館では不穏試合をやってしまうことになる訳ですが、少なくとも、外国人選手に「ステフ」(硬い)と言って蹴りやスープレックスを受けたがらず、対戦しなくないとまで言われていた前田にとって「何でもやってこい」と度量の大きいところを見せてくれたアンドレに悪感情を抱く訳もなく、どこでどうなってあんな試合になったかは謎な部分もあります。

が、アンドレが自分の意思で「生意気な前田を黙らせる」と仕掛けることは先ず考えにくく、アンドレにモノを言えるのは新日本プロレスでは猪木か坂口のどちらかしかいない。となるとやはり試合中、通路に姿を現した猪木がアンドレを焚き付けた、と私は思います。

本コラムの冒頭で流さんが「前田vsアンドレと言えば86年4月29日の試合が喧嘩マッチとして知られているが、今回はその試合ではなく…」と「あの日あの時」は2巡目にして採り上げる出来事の歴史的価値をさほど重要視しなくなった、ということがサラッと書かれていますがこれは後々ハッキリしてきますね…

※対戦成績は134戦29勝105敗、勝率216。

2 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年01月>
日 月 火 水 木 金 土
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31