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2019年08月31日23:01

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猪木とビンス(512)最終章

74年は国際プロレスにとっては受難の年。「新春パイオニア・シリーズ」ではIWA世界ヘビー級王者に返り咲いたストロング小林が1月14日、寝屋川市市民体育館、19日、川崎市体育館の2度に亘りカウボーイ・ビル・ワットの挑戦を退けましたが、いずれも反則含みで内容に乏しく、年が明けても精彩を欠いたままでした。

シリーズ終了後の2月13日、西早稲田の喫茶店「ルナ」で会見を開いたS小林は国際プロレスを離脱(当時は団体も少なく『退団』という表現は一般的に使われていなかった)、フリー宣言し馬場、猪木に挑戦状を叩きつけました。

これは長いこと新日本プロレスの引き抜きというのが定説になっていましたが、この時点でS小林と吉原、グレート草津ラインの不仲、確執というのは表面に出てきていません。

後々検証されて行くにつれ、金銭的処遇も含めたS小林の国際プロレスに対する扱いの不満、草津との確執を聞いた新日本プロレス新間寿営業本部長が獲得に動いたというのが正解のところのようで、新日本プロレスが一方的に金銭でS小林を一本釣りにいった訳ではなさそうです。

「馬場、猪木に挑戦」というのは新間の考えたアングルで水面下で馬場と猪木&新間によるS小林争奪戦が勃発。小林家は親子電話になっており、S小林のお母さんが馬場と猪木&新間とS小林の会話を聞いていて馬場が「小林」と呼び捨てにして上から目線だったのに対し新間は「小林さん」とさん付けで呼び敬語で折衝。新間の巧みな話術でS小林の心が新日本プロレスに傾いた時にダメ押しで猪木が直接電話口に出て口説きにかかりました。

S小林のお母さんは馬場の口調が横柄、猪木&新間は丁寧と、新日本プロレス行きを薦めたそうです。S小林がフリー転向記者会見を開き「馬場、猪木に挑戦状」という段階では新日本プロレス参戦が決まっていたという訳です。

しかし、出て行かれる側の吉原がS小林と交わした「契約書」をマスコミに公開。そこには「契約途中で脱退した場合は違約金1,000万円を支払うこと」との記載がありました。

NET「ワールドプロレスリング」の解説をしていた東京スポーツの桜井康雄第二運動部長が井上博社長に頼み、「移籍金」として1,000万円を支出してもらい、S小林は晴れてフリーの身となりました。

新間の書いた筋書きに馬場が乗る訳もなく、馬場はS小林の挑戦を無視。猪木が受けて立ち、3月19日、蔵前国技館で世紀の大一番、猪木vsS小林のNWF世界ヘビー級選手権試合「昭和巌流島の闘い」が実現(90分1本勝負)。29分30秒の激闘となり、猪木が伝説となった「首で支えるジャーマン」でS小林を破り初防衛に成功しています。

勝敗はある程度見えていたとは言え、2か月前までは国際プロレスのエースだったS小林が猪木に負けたとあっては、国際プロレスの面目は丸潰れになりました。

一番大きかったのは視聴率低迷から68年1月の放送開始時から6年3か月続いていたTBSの「TWWAプロレス中継」が74年3月一杯で打ち切りとなったことでしょう。

最後は毎週土曜日14時〜14時30分のローカルネットとなり、まだ週休二日制が一般化する前の話なので土曜日は半ドンの時代。「こんな時間に誰が見る?」的なシビアな時間帯で、30分番組に付1会場収録し2週に分けて放送という、現在のワールドプロレスリングのような感じになっていました。

とは言え、毎週入って来る放映権料収入が途絶えたのは大きなダメージでした。


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