85年4月12日、後楽園ホールでUWFが「フロンティア・ロード」を開幕させています。
78年4月の新日本プロレス第1回MSGシリーズに来日したレイ・スチール、81年4月に新日本に来日したカズウェル・マーチン、77年6月の新日本、アジア・チャンピオン・シリーズに来日し、シン軍団の中ではマトモだったタルバー・シン、さらに68年9月に日本プロレスにバディ・モレノのリングネームで初来日、73年6月に全日本プロレスに再来日した超ベテラン、老雄オマール・アトラスが実に12年ぶりに来日しています。
開幕戦は2150人(満員)発表の観客で一時のブームはやや去った感じでした。
メインイベントは3シリーズ目に突入した格闘技ロード公式リーグ戦でスーパー・タイガーと山崎一夫が対戦。12分51秒、SタイガーがハイキックでKO勝ちを飾りました。
前田日明は空中正三を10分44秒、変形裸絞めで破っていますが、優勝争いでは藤原喜明、木戸修、Sタイガーには届かず。
セミ前の藤原、スチール組vs木戸、マーチン組のタッグマッチは30分時間切れ引き分け。
4月14日は大阪・万博記念公園お祭り広場大会、この会場は全日本プロレスが74〜76年の3年連続、10月にザ・デストロイヤーとアブドーラ・ザ・ブッチャーのPWF認定USヘビー級王座を賭けた遺恨試合を行い超満員にしている会場でしたが、椅子の数の問題はあるかも知れませんが3387人(超満員)発表の観客を集めてみせました。
メインイベントは高田伸彦と山崎が公式リーグ戦で対戦し23分45秒、変形腕固めで高田の勝利。前年12月5日に後楽園ホールで山崎のジャーマン・スープレックスホールドでフォール負けを喫した借りを返しました。
セミファイナルでは前年10月5日、11月15日の2度に亘り後楽園ホールのメインイベントとして組まれ、いずれもSタイガーが藤原に一本負けして衝撃を与えた4強対決、
Sタイガー、前田組vs藤原、木戸組が組まれました。試合は29分29秒、藤原がSタイガーを変形肩固めでギブアップさせ、またもSタイガーが藤原に一本負けし、3タテを食らわされてしまいました。
シリーズ最終戦の4月26日、後楽園ホールでは旗揚げメンバーであるマッハ隼人の引退試合が行われ、Sタイガーと組み、タルバー・シン、Cマーチン組と対戦。
20分42秒、マッハがタルバーを三角絞めで破り引退試合を白星で飾りました。
日本の団体に入門することをせず、単身メキシコに渡り、アレナメヒコのルチャスクールで修行を積んでメキシコでデビュー、79年11月、旧知の仲である鶴見五郎の紹介で国際プロレスに入団、日本人初の逆上陸ルチャドールとして後輩達に道を開いた功績は大きかったです。
国際プロレス崩壊後はメキシコに戻っていましたが、全日本プロレスでヒールとして活躍していた鶴見との繋がりで84年1月に全日本に登場。
2シリーズ参戦しましたが身体の大きな選手の多い全日本では力を発揮出来ず、馬場から事実上リストラされた形でUWFへ。
当初は新間寿とUWAのルートからメキシコのルチャドールとも対戦、自らもEMLL(現CMLL)とのパイプを持ち、7月の無限大記念日にはアンヘル・ブランコ・ジュニア、エル・ファンタスマ、MS1(エメ・エセ・ウノ)、ガジョ・タパドのルチャドールを招聘。
しかし藤原、Sタイガーの加入でルチャ色は排除され格闘技色の強い団体になっていきました。
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