11月15日発売号は選手名鑑増刊号に付、休載。
ちなみにこちらが用意していたのは55年日本プロレス蔵前国技館、アジア選手権タッグ部門優勝決定戦、力道山、ハロルド坂田組vsキング・コング、タイガー・ジョキンダー組(2本目に坂田がタックルをかわされて場外転落。リングアウト負けしそのまま起き上がれず試合放棄となり、コング、ジョキンダー組が初代王者となった)でした。
しかし、これは15日と書かれている文献と16日と書かれている文献の両方が存在していることが判明しており、これは微妙なところでした。
11.11月22日発売号●【予想】最初で最後の超獣対決、スタン・ハンセン、テリー・ゴディ組vsブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカ組(87年全日本プロレス後楽園ホール)【正解】東大紛争の影響で後楽園ホール付近が通行止め、日本テレビスタジオにて代替試合(68年日本プロレス麹町日本テレビスタジオ)
【解説】超獣対決以外に候補として挙げたのが、UWFを退団したラッシャー木村が馬場の「ミステリアス・パートナー」として世界最強タッグ決定リーグ戦に参戦(84年全日本プロレス松戸市運動公園体育館)でした。
しかし翌88年にはブロディがプエルトリコでホセ・ゴンザレスに刺殺されるという衝撃的事件が起き、結果としてハンセンとの対戦が国内ではこれが唯一の試合となったことからこの試合をチョイス。
ブロディは85年3月に全日本プロレスから新日本プロレスへ移籍。大量離脱で選手不足に陥った新日本の救世主となりましたが、半年間という短期間に猪木とのシングル戦が6回(ハワイでの対戦を含む)組まれるなど早くもマンネリ化。
12月12日、仙台・宮城県スポーツセンターでのIWGPタッグ・リーグ戦優勝決定戦をパートナーで同年5月にWWF経由で新日本に移籍してきたスヌーカと一緒にボイコットして東京へ戻ってしまいました。
以降、新日本とは疎遠になりましたが、翌86年8月、ハワイで猪木とブロディが会談を行い、復帰に向けての話し合いがなされました。
結果86年の「チャレンジ・スピリット86」終盤戦の9月16日、大阪城ホール(猪木と60分時間切れ引き分け)、9月19日、福岡スポーツセンター(藤波と両者リングアウト)の2大会に参戦。
11月に予定されていたジャパンカッブ争奪タッグ・リーグ戦にも特別参加が発表されていましたが、またもやキャンセル。これでブロディは新日本プロレスからは永久追放となりました。
87年には長州以下ジャパンプロレス、カルガリー・ハリケーンズが分裂し長州らは新日本へUターン。谷津嘉章らは全日本へ残留。
馬場は新日本プロレスに対し、新日本に移籍したものの本領発揮出来ず、日本で帰るリングがなくなっていたアブドーラ・ザ・ブッチャー、ブロディ、スヌーカの3人を全日本に戻すよう要求。
新日本もこれを応諾し、馬場の「恩赦」により3人の全日本復帰が実現しました。
ブロディは同年10月のジャイアント・シリーズで、ブッチャー、スヌーカは最強タッグで復帰を果たしました。
ハンセンとの超獣コンビ復活かと思われましたが、ハンセンはゴディと、ブロディはスヌーカと組んでエントリー。ブロディのパートナーは当初、カーネル・デビアース(エド・ウイスコスキー)と発表されましたがスヌーカに変更。
第2戦のこの日、後楽園での公式戦で両チームが激突、17分15秒、両チームリングアウトの無得点試合となりました。
68年、東大で学園紛争が勃発、全共闘によるストライキや建物封鎖がありました。これに連動して日大紛争、早稲田革マル派等学生運動が盛んになりました。
この日、バリケード封鎖があった為か、東大赤門付近の本郷界隈から後楽園のある一帯が完全通行止めとなり、この日予定されていた日本プロレスの後楽園ホール大会は中止に。
しかし、当日は日本テレビによる生中継が行われるということで番組に穴を空ける訳に行かず、急遽、当時麹町にあった日本テレビの第10スタジオにリングを設営し試合を行ったものです。
これは、私自身がこのこと自体を知らず、まさに完敗。私がプロレスをテレビ観戦するようになってから購入した文献にも書かれているものはなく、してやられた格好となりました。
学生紛争は子供の頃テレビで見た記憶はありますが全体像はもちろん判らず。
流さん57年生まれで当時11歳、私63年生まれで当時5歳。この年齢差が勝敗を分けたと言えます。
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