78年4月8日、ロサンゼルス・オリンピック・オーデトリアムのリングに登場した藤波はエル・ゴリアスを相手にWWWFジュニア・ヘビー級王座防衛戦を行いました。
ゴリアスはブラック・ゴールドマンとの「赤い悪魔」レッド・デビルスの片割れとして知られ、新日本プロレスにも76年2月、77年6月(マスクマンのジ・アジアン・テローズ1&2号として来日、猪木にマスクを剥がされ途中から素顔で出場)に参戦しています。
比較的小柄ではありますが、ジュニア・ヘビー級かと言われると甚だ疑問で藤波と比べるとかなり身体つきは分厚く、完全なヘビー級と言っていいでしょう。
ゴリアスはメキシカンですが飛び技はなく、ジャベ(関節技)と反則で試合を組み立てる海千山千の実力者。藤波は苦戦を強いられました。
試合は33分45秒という長丁場となり藤波がダブルアーム・スープレックスの体勢からそのままブリッジしてホールドする風車固めでゴリアスを破り4度目のタイトル防衛に成功しました。
この日もそうでしたが、この時期、ロサンゼルス地区に定着していたドクター・ヒロ・オオタ(ヤス・フジイ)が前回1月27日、同所でのマスクド・カナディアン戦に続き藤波を挑発しました。
オオタは本名・藤井泰行、49年大阪生まれでナニワ・ボディビルジムで身体を鍛え、67年にTBSの放送がつく前の国際プロレスに入門。藤井東助、あるいは零戦隼人のリングネームで活躍。
国際に外国人側として来ていたシャチ横内に頼み、70年にヨーロッパに遠征。
国際プロレス側がこれを承諾していなかった為に藤井は国際を解雇されています。
74年、所用で一時日本に来ていた時期がちょうど古巣の国際プロレスがストロング小林の退団、TBSの放送打切りで団体存続の危機にあり、
解雇された恨みからか、「国際なんて潰れてしまえばいいのに」と発言し少し上の先輩であったマイティ井上を激怒させました。
ヨーロッパを経て77年暮れにロサンゼルス入り、ドクター・ヒロ・オオタとしてヒールではトップの扱いを受けアメリカス・ヘビー級王者チャボ・ゲレロのライバルとして活躍していました。
テレビ朝日の画面にも登場したところから新日本プロレスにも登場か?と思われましたが、あまり人物としての評判が芳しくなかったか、あるいは試合がしょっぱくて新日本のレベルに達しなかったからか、おそらく両方だと思われ新日本のリングには参戦しませんでした。
藤井はヤス・フジイとして79年11月に古巣国際にヒールとして登場、新日本からレンタル参戦していた上田馬之助と組んでM井上、アニマル浜口組のIWA世界タッグ王座に挑戦しましたが敗退。(79年11月14日、長野・諏訪湖スポーツセンター、金網デスマッチ)
この時も国際を見下すような発言をして1シリーズで切られています。
85年にUWF、ジャパンプロレス勢の大量離脱で旗揚げ以来の危機に陥った新日本プロレスを一時期牽引したストロング・マシン軍団の3号の正体は藤井と言われており、つくづく人材不足の時期であったと実感させられます。
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