モハメド・アリと猪木による世紀の大一番が発表されると日本のプロレス界はこの話題で持ちきりとなりましたが、報道する側には温度差がありました。
桜井さんが第二運動部長を勤める東スポと桜井さんの弟分、竹内宏介さんが編集長のゴングはこぞってアリvs猪木戦をプッシュ。
その他朝刊スポーツ各紙とベースボール・マガジン社発行のプロレス誌は客観的に捉えておりました。
プロレス誌には編集顧問として筑波大学教授だった森岡理右がおり、馬場シンパで派手なパフォーマンスで話題を振りまく猪木のことは嫌いでした。
プロレス誌編集長の藤沢久隆は記者時代、公表されていなかった猪木とダイアナさんの結婚生活を取材。プロレス&ボクシングで紹介(この記事も先日、国立国会図書館にて発掘、近いうちに紹介します)しており、猪木との信頼関係はありました。
しかし、藤沢編集長は年長である森岡氏の顔を立てて、編集方針に森岡氏の意見を全面的に採用していた為か、全日本プロレス寄りとなっていました。
新間寿営業本部長が1年分のプロレス誌を持って、ベースボール・マガジン社の社長室に「殴り込み」をかけて社長である池田恒雄氏に向かい、1年分のプロレス誌の表紙を突き付け、
「いいですか、社長、お宅の雑誌は全日本ばかり表紙にしているじゃあないですか!?ウチの記事も少ない。猪木をもっと取り上げて下さいよ!」
と直談判したのは有名なエピソードです。
ちなみに、猪木vsウィリエム・ルスカ戦の初戦が掲載された別冊ゴング76年3月号の表紙は猪木vsルスカ戦の調印式(立会人である秋田大助衆議院議員を間に挟んでのもの)だったのに対し同日発売のプロレス誌3月号の表紙は3月10日に日大講堂で鶴田試練の十番勝負第1戦の相手を勤めるバーン・ガニアでした。
ゴングの場合は本誌ではボクシング、キックボクシングも扱っていましたが竹内氏の裁量でどうにでもなる世界でした。
しかし、大手総合スポーツ出版社であるベースボール・マガジン社はボクシング・マガジンも単独で発売しており(72年にプロレス&ボクシングより分離、独立)、日本ボクシング記者クラブとの深い付き合いもありました。
なので、そちらの顔色も伺わなければならず、アリvs猪木に関しては日本ボクシング・コミッショナーがあまりいい顔をしていなかったが故、積極的報道が出来なかったのが実際のところかと思われます。
業界ではアウトローの東スポとゴング、関西を拠点とした週刊ファイト(新大阪新聞社)だけがアリvs猪木戦を積極支援の方針。
新間、桜井さん、竹内さんの3人の絆はこの時に醸成されていきました。
76年3月18日、蔵前国技館でジョニー・パワーズを2-1で破りNWF世界ヘビー級王座を防衛した猪木はシリーズ終了後の3月25日、ニューヨークで行われるアリとの調印式に向けて渡米しました。
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